5-13 夕食と、拭えない不安
「元気そうね、稲月さん」
ドアを開けたところに立っていたのは、田中さんではなく、いつも通りの仕事着にコートを着込んで岡持ちを持っている夜野さんだった。
「夜野さん……?」
「何呆けた顔してるの、稲月さん。私よ。
あのボディーガードの人田中さんって言うのね。
彼から昨日の夜に電話があって、今週一週間は毎晩うちからうどんの出前することになったのよ」
突然の状況に驚いたせいで口が閉じる事を忘れてしまい、ぽかんと開いたままになる。
「え、なにそれ……?」
「ええ、知らせていないのも聞いてるわ。お代の一部として稲月さんを驚かせていいって話だったからね」
私の反応に満足したのか、夜野さんはニッコリとほほ笑む。
「それより、早く部屋に入れてくれないかしら? 岡持ちを早く置きたいのよ。あと、硬めに茹でて来ているけれど、それでも伸びるから早く食べてほしいし」
「あ、うん、わかった」
夜野さんの言葉で正気を取り戻した私は、彼女を部屋に招き入れた後でテーブルを用意しようとした。とりあえず片付けようと、そこに乗せてあったゲーム機をテレビの方に持っていく。
テレビの横に置こうとしたときに、親指がずきりと痛み、その瞬間にカタンとゲーム機が少し音を立ててしまう。気に留めないように自然にやったつもりだったのだけれど、それを夜野さんは見逃さなかった。
「ああ、こういう事ね。田中さんが言っていた理由がわかったわ。ゲーム機で遊んでばかりなので少し話し相手になってくださいってね」
テレビゲームをしっかりと見た夜野さんがジットリとした声でそう言った。
なんかマズいもの見られたという感覚が私の背中を流れ落ちる。
「気にしないで、ほら、参考書の方もあるから」
そう言ったものの、折り目の付いていない新品の参考書なんてこの場では何の役にも立たなくて、夜野さんからの目は私にブスブスと刺さったのでした。
* * * * * * * * * *
「お母さん特製の出前うどんよ。かさばるだけで杯数が入らないお得意様専用のやり方だから、普通の出前よりは美味しいわよ」
テーブルを片付けた後、そう言って彼女が岡持ちから取り出したのは、四つの丼と二枚の皿だった。
二つの丼にはうどんつゆが、もう二つの丼には麺だけが入っていて、皿にはいつも通りになってしまったてんぷらが載っている。
「こうすると麺が延びにくいのよね」
夜野さんは目の前でうどんつゆの丼の方に麺を入れて、それからてんぷらを盛り付けていく。
慣れた手つきで二杯のうどんを作った後で、彼女は言った。
「お客様、どうぞお召し上がりください。それと、そこの椅子使わせてもらうわね」
ぽーっと見ている間に、夜野さんは椅子を持ってきて、
「ああ、言い忘れたわ。私も今週ずっと、晩御飯ここで頂くわ。お母さんにも田中さんにもちゃんと許可取っているから気にしないで」
「あ……そうなんだ」
どんどんと進む状況にあっけにとられた私は、最初の一口をすするまでは、ほぼ自動で動いていた。
口に入ったうどんのコシと汁の力強さですぐに目が覚めたんだけれども。
「この汁、いつものと違う?」
「そう、わかるのね、稲月さん。
いつもより出汁濃いめで甘みも強くしているのよ。食が細くなっているって聞いたから、疲れてる人とか濃い口好みの人に出す用にしてみたの」
田中さんは夜野さんに何を言ったの……?
後で問い詰めようと心の中にメモしながら、私はもう一度うどんと汁に取り掛かる。
たしかにその汁はいつものよりもちょっと重めの味で、出汁も品が無いと思えるぐらい強かったのだけれど、うどんと一緒に食べると妙に後を引く味だった。
「一味で味付けても引き締まって美味しいのよ」と勧められるまま唐辛子を振っては汁と一緒にうどんを啜っていく。
てんぷらと一緒に食べるとちょっと重すぎる感じはあったのだけれど、いつもどおりと言うか、うどんが胃の中に消えるのは早かった。
食後になって夜野さんは手際よく空いた丼を片付けていた。その間に、お返しとばかりに私がお茶を入れる。
ちゃんとお願いしただけあって、緑茶もほうじ茶も質のいいものが私の部屋に備えられていた。
「粗茶ですが」
と言いながら、部屋の備え付けのちょっと小さな湯飲みに茶を入れて夜野さんに差し出す。
しっかりと焙じてあるそのお茶は、あっという間に部屋の中の匂いを出汁の匂いから茶の匂いへと変えていた。
ふーふーと冷ましてから一口飲んだ夜野さんは、ちょっとだけびっくりした後、柔らかい声で「おいしい」と言った。
「いいお茶、お願いしといたからね」
そう言いながら私も一口飲む。確かに美味しい。少し苦いのだけど、引っかかるところは無くて、芳ばしい香りはしっかりと口中から鼻まで包み込んでくれる。
「稲月さんって、意外と舌肥えてそうよね?」
「うーん、どうだろう? 家だとほとんど高い物食べられなかったし、わからないかな。でも、お茶はそうね、お父さん好きだったから色々と飲んでいたと思う」
「お父様が、そうなんだ……」
空気を重くしたと気づくのはワンテンポ遅かった。
いつも私からお父さんの話を出してしまって、直後にしまったと思ってしまう。周りの人も気にすることだから私も気を付けないと。
気まずさという一瞬の静寂が流れた後、夜野さんが話題を変えようとばかりに口を開いた。
「そう言えばね? 一ついい話があるの」
「何?」
「明日、水代先生と放課後に龍神教の所に行ってくるわ」
この時振り向いた私の速度は、白黒の世界に入っていたとしても確実にわかるぐらい早かったと思う。
私は首を痛めそうなぐらいの速度で彼女を振り向いてすぐに叫んだ。
「危ないよ! あそこに行って何するの!?」
「落ち着いて稲月さん、落ち着いて座って」
私はいつの間にか立ち上がっていたらしく、興奮は覚めなかったけれど宥められてからとりあえず椅子に戻る。
「最初から話をするからちゃんと聞いて?
昨日の昼間に、水代先生から話があってね、ようやく教頭先生と電話で連絡がついたって話だったの。
教頭先生は教団の中に入っていて、消えた学生を探したり、その後で色々と交渉をしていたらしいのよ。
ようやくそれの結果が出来て、失踪していた学生が見つかっただけじゃなくて、学生を親元に返すように手はずも付けれたって、電話があったそうなの。
あの時の先生の憑き物が落ちた後のような、ほっとした顔を見たら、冗談やウソではないと思うわよ。
明日行くのは単に例の教団の施設の前までだし、生徒を引き取ったらすぐに帰るわ。だから安心して?」
静かに、事細かに説明しようとする夜野さんはいつも通りだった。
(罠……っぽいですよね?)
そして、話を聞きながら即座に私はイナンナ様と会話を始める。
”ええ、十中八九。ただし、ナナエの思惑とはきっと違うと思うわ”
(私の思惑?)
”ええ、このタイミングで二人に対して罠を掛ける理由があまり見当たらないわ。そこまでして捕らえる意味が無さそうなの”
(どういうことですか?)
”すでに状況を知っている人間は多いのよ。そこで二人まで居なくなったら矛先は明らかに教団に向かうわ。だから、それをする意味がないって事”
(なるほど)
”だから、罠があるとして想定するべきは埋伏ね。今回はすんなり返してもらえる公算は高いけれど、枝付きになっていていずれどこかで裏を返されるパターンじゃないかと思うわ”
(素直に放してもらえるけれど、またどこかで他の人を呼び込むようになるってことですかね?)
”それだけならいいのだけれど……”
ここまでイナンナ様と会話をしたところで、眉間にしわが寄ったままの私を見据えたのか、夜野さんは再度声を掛けてくる。
「ね? そんなに怖い顔をしなくても安心して稲月さん。今回は先生がついているんだし、箒も持っていくから何かあればちゃんと逃げるわよ」
そう言ったところで、私は安心することが出来なかった。
「あのね、じゃあもう一つ。
この話を聞いて私一つだけ先生を通じて捻じ込んだことがあるの。引き取った生徒たちは今後教団にかかわらせないようにするって約束させるようにしたわ。
あの時先生はそこまで頭が回っていなくて、すぐにメモしてたけれどね。
私、稲月さんが気にしている点はこれだと思うんだけれど、明後日の教団創始者が来るイベントにはみんな近づかせないように配慮するから、大丈夫よ」
夜野さんと先生が行くのは明後日の木曜日ではなくて、明日の水曜日。
それは、幾ばくか安心する要素だったのだけれども、かといって心配が全く無くなるようなものではなかった。
「夜野さん、今から考え直す事出来ない?」
私の問いには間を置かずに首を横に振って返答が返ってくる。
「気にすることはわかるわ。でも、私はクラスメイトや他の生徒たちも心配なの。
稲月さん、心配してくれてありがとうね。でも、私は折角できた親友を悲しませる事なんてしないから大丈夫よ」
繰り返される大丈夫と言う言葉を前に、私には、夜野さんをこれ以上引き留める事は出来なかった。
不意に、彼女には気づかれないように視界を魔力感知状態に合わせる。その姿はいつも通りで、何も変哲は無い。
視界を戻した私は、一言だけもう一度言った。
「気を付けてね、本当に」
「ええ、もちろんよ」
この後、二人の会話は進まずに場はお開きとなり、部屋の外で見送りを済ませた私は魔力感知状態にもう一度切り替えて、出来る限り帰る夜野さんの姿を追った。
岡持ちを箒に通して、空を飛んで帰路につく彼女は何も変わらないようで、気が付いた時には他の光に紛れて見えなくなっていた。
見送りを済ませ、寝る用意を済ませ、一日の作業を終わらせた私はまたベッドの上で寝っ転がる。
深呼吸を一つ二つとついて目を閉じる。
多分今日も夢を見る事になるだろう。昨日と違うのは、朝への警戒だけ。
ああ、今日のように何事も起きなくて、今週と言う日々が過ぎ去ればいいのになぁ。
と、私は夢うつつの合間に考えていた。
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