それぞれの思いは、それぞれ違います
5-1 彼女と私
ベットの中から確認する時計は朝の六時前。いつもの起床時間だった。
服は昨日から着替えていない状態で、ちょっとだけ体を起こすと、固まらずに残っていた血が少しベットにもこびりついていた。
あーもう、どうしようこれ……
ホテルの人に任せるしかないか。
(お風呂だけ先に入ってきていいですか?)
”ええ、そのぐらいはしてきなさい。朝食も食べられるなら食べてきていいわ”
(いいえ、そっちはやめときます。今そんなにお腹減っていないので)
”でしょうね”
努めて何のことも無い普通のやり取りをする私達。
広い風呂ではないのだけれど、たっぷりと貯めた湯に浸かり、その後で昨日の汗と血のこびりつきを体から洗い落とす。
体は綺麗だった。清潔、と言う意味だけじゃなくて、古傷以外何も傷は無くて、鏡に映る私の慎ましい胸部も変わらずで。
部屋着代わりの体育ジャージに着替えた私はベッドに腰掛け、そのまま後ろに倒れる。
天井は、いつも通り何も変わらない。
右もを見ても左もを見ても、部屋の中は何も変わらなかった。
変わったのは……
”さて、心積もり、出来た?”
(はい)
目を閉じ、視界を落としてからそう答える。
”まず
(イナンナ様にお任せします)
主導権はイナンナ様に渡す。
私の出番は多分その後だと思うから。
”まぁ、どちらも同じことなのだけれど。じゃあ、順を追って昨日の話からするわね”
と、彼女は言った。
”まずは昨日、銃弾が降り注いだ時に何をしたかだけれど。
事実を言うとすれば、私達は魔法を使ったわ。
ナナエが魔力を絞り出して、私がそれをこの世界に関与する現象へと転換した。単純な防壁の魔法だったけれども、結果としては上々だったわ。
このやり方は私の思いつく一つの方法ではあったのだけれど、土壇場で成功したのよ”
ここで一瞬だけ区切ってから、さらに続ける。
”
(ありがとうございます)
私にはその言葉に何の感動も感じ無かった。
本来ならば喜びのラッパでも鳴るような話なのだけれど、私たちの間に流れるのは静寂の時だけ。
”わかってるわ、聞きたいのはこんな事じゃないわよね”
(はい)
静寂を破る声でさえ、静かに。
”言うまでも無い話だけれど、私はね、美の女神イナンナなの。
美しいという観点を起点にして、人間、生き物、世界の認識を纏めるのが私の主な役割。
ええ、簡単に言うと、美しいとは何かを私が決めているのよ”
私はそれに意味をなさない頷きを返す。
”それでね?
私の神としての魔法は、主に認識の変換なの。
例えば、私が美しいと言えばそれは美しいものになるし、体に火がついていると思えば、本当に火が付いたように感じる。頭の中の認識をちょっと変える事で気分が上がったり、死にそうな傷を負っていても何もないように振舞わせることもできるのよ。
でも、あくまでそれは
それがイナンナ様の魔法。幻覚が主に上がるとは聞いたことがあったけれど、そういう理由だったのね。
”正解よ。
昨日、襲撃された時に気分が高揚したでしょ? あれは私がやった事よ。ナナエの頭の中にちょっと元気を入れてあげたの。
でもね、私の魔法では、他に出来るのは基礎的な事ぐらいなの。そうね、ナナエの魔力を固定させて防壁を作ったりとかね”
なんだろうか、イナンナ様は大事な事を言っているはずなのに、どうにも肝心な話が進んでいない気がする。
(……それで、何が言いたいのですか?)
イナンナ様の要領を得ない話し方に、私は答えを迫る。
一拍置いた後、彼女は言葉の雰囲気を変えて答えた。
”私が降臨した時の話、覚えている?”
(私が崖から転落して、イナンナ様が無理やり治療したんですよね?)
それが原因で、私達は今こんな状況になっているとイナンナ様が言っていた。
”そう。そして、昨日もね、その時と同じことを私はナナエにしたのよ”
その時と同じこと……?
私は何をされた……?
思い返すと、共通するところは一つだけだった。
(私を治療するときに何かしたんですか?)
頷いて肯定を促される感覚。
”何かした、と言うよりは、私の取った方法の問題ね。
どちらの場合も傷が深くてね。傷の治療は私の魔法の範疇ではなかったし、一般的な再生能力を使った治療魔術で何とかなる状況でもなかったの。治癒魔術での対処なら、十分な時間があればなんとかなったかもしれないけれど、それを待つ時間はなかったからね。
だからね、私は、無理やり再生を促したのよ。
(……イナンナ様を、私に分け与える?)
”ええ。普通なら降臨した神は人間を取り込むの。私がやったことは、その逆よ。取り込むのではなく、本当にちょっとだけだけれど、私を直接ナナエに分け与えたの”
分け与えたから、イナンナ様が傍にいるの?
いや、それよりも、昨日の事件の後からイナンナ様との距離が変わっている気がしたのってもしかして?
話しかけたわけではないはずなのだけれど、私の思考にイナンナ様が返答する。
”ええ、今回の事で私の一部が完全にナナエに根付いたのは間違いないわ”
イナンナ様が根付いた。だからこれは……
”だからでしょうね”
その言葉を噛み締める。どうにもこうにも、私自身何か変化があったことを自覚していた。
イナンナ様とも妙に話が噛み合ったりしたし、なんというか、これまでにない安定感を自分で覚えていた。
今まではイナンナ様と私の関係は、完全に神とその
”それは流石に言い過ぎね”
(ですよね、わかっています)
こんなやり取りが違和感もなくスムーズに出来るような関係に、
”いや、それは前からできていたと思うわ”
(ですよね)
と、連続してツッコミを受けてもスムーズに返答が……
”三回目は突っ込まないわよ?”
(…………)
フフッと笑い声が漏れてしまう。
こんな状況なのに。いつの間にか、こんな状況にされたのか、なったのかしてしまったのに。
(これって、私が消える予兆ですか?)
隠しても仕方ない心配事をイナンナ様に聞く。
”……わからないわ。直接分け与えるなんて、今までしたことが無いから。
でも、多分ナナエが消えることは無いと思うわ。しばらく一緒になるだけよ”
その答えは、なんとなく予測がついた。
私の感覚からすると、しばらくと言うよりは、私が死ぬまで一緒なんだろうなって気がしている。
(じゃあ、大丈夫ですね。いい事じゃないですか、前よりも私達仲良くなった感じなんですから)
そう、前よりも親密になったせいで、私にはイナンナ様の考えが直接はわからなくても、雰囲気だけでも掴めるようになっていた。
そして、そこに感じられるのは大きな困惑。
だからこそ、私はどうしてだか努めて前向きになるような言葉を考える。
(私を救って頂いて感謝しています、イナンナ様。
不肖の身ですが、これからも宜しくお願い致しますね)
ちゃんと感謝の言葉を、心の底からそう思ってイナンナ様に伝える。
”気持ち悪いわ”
まぁ、すぐさま返ってきた言葉はこれなんだけれども。
”本心から言ってるのなら、なおのこと悪いわ”
心底私の言葉を気持ち悪がっているイナンナ様。
でも、私には、戸惑って困惑しているイナンナ様より、こっちの方が彼女らしくて好きだった。
ついでに、私の意図なんてのもダダ洩れで、はぁとため息をついた後で彼女はまた大事な話に戻る。
”ナナエも感じている通り、私達の関係はこれからも変わるものじゃないわ。
でも、前よりは意思疎通が早くなったし、私がナナエに干渉出来る部分が大きくなったのはこれからの事を考えると大きな進歩だと思う。
具体的に言うならば、ナナエが魔力さえ出してくれれば、私がそれを使って魔法を使えれるようになったと言う事よ”
(それって、昨日の……?)
”ええ。でも、昨日の時はまだここまで密接ではなかったの。最初の時もそうだけれど、なじむまでに少し時間がかかるみたいね。
今ならきっと昨日よりもスムーズに魔法が使えると思っていいわよ”
……目を開けて天井を見る。
両腕を上に伸ばし、手を握ったり開いたりする。
何も変わらない。
何も変わっていないはずなのに、私達は変わったことを感じていた。
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