4-6 霧峰さんの失態
「おう、奈苗ちゃんか!」
霧峰さんの生活しているスイートルームに入るや否や、目に飛び込んだのは長ソファに深く腰掛けてふんぞり返っている霧峰さんの姿だった。
ネクタイはだらしなく緩められていて、片手には液体の入ったグラスをもっている。
応接テーブルの上には三本の高そうな酒瓶と、その下にコースターにされているように書類の束が置かれていた。
胡乱なままの霧峰さんの目が私から田中さんに向いた瞬間、彼は顔中に怒気を募らせる。
「ハタナカ! お前、あとで責任とれよ!」
大声をあげた彼は、手にしていたグラスを田中さん(田中は偽名でハタナカが本名だっけ、全然隠していないけれど)に投げつけようとするが、振りかぶったところで手を止めた。
「クソっ……、奈苗ちゃんの目の前か」
そう言った彼の目はそれまでの酔っぱらいの胡乱な目つきから、普段の理性的なものへと瞬時に変わった。
振りかぶった際にグラスから零れた酒をもったいなさそうに舐めた後で、霧峰さんは再度田中さんに声を掛ける。
「ハタナカ。すまん、今日だけは見逃してくれ。それでこの一件のそちらの責任問題を帳消しにする」
「わかりました」と首肯する田中さんを見た後、私に向かって霧峰さんはこう言った。
「奈苗ちゃん。未成年相手に言うのはすまないが、今晩酌に付き合ってくれ」
「……お酒は飲めないですけれどそれでよければ」
返してきた霧峰さんの顔に張り付いた笑顔には、見てわかるほどに疲れがこびりついていた。
田中さんはルームサービスで二人分の夜の食事と、私へのノンアルコールの特別な飲み物とやらを手配した後で部屋を出て行った。
スイートルームの部屋で二人、応接テーブルをはさんだソファに座って対面する。部屋の中は多少田中さんが片付けたが、応接テーブルには酒瓶と書類束があり、ルームサービスで頼んだ軽食は持ってきたワゴンに乗ったままだった。
「ワインにする前の葡萄を使った輸入物のジュースだ。酒の代わりにこれでも飲んで一緒に付き合ってくれ」
そう言って、霧峰さんは赤黒く光沢を持った液体を瓶からワイングラスに半分ほど注ぎ、私に勧めた。
……ワイングラスなんて初めて見たし、正直どう持つかよくわからない。
どうすればいいんだろうこれ?
”細くなっている脚の所を軽くつかんで持ちなさい。それと飲む前にグラスの上を軽く回して匂いを嗅いでみるといいわ”
私はイナンナ様に言われるまま、その動作をなぞる。
飲む前に軽く匂いを嗅いだだけで、芳醇な葡萄の香りが鼻を突き抜けいく。
口に含むと、今まで飲んだことのない濃厚な、ただ甘いだけではなく酸味とアクセントになる程度の微妙な渋みのある葡萄の味が口に広がった。
「なかなか様になっている飲み方じゃないか」
美味しいを言わせる前に、霧峰さんがそう答える。
「爺さんに教わ……いや、なんでもない」
続けた言葉が失言だったのを察したのか、彼は押し黙った。
「大丈夫です。霧峰さんが父の事を気にしているのは私も知っていますから」
「……すまないな」
失言を許しはしたけれど、そこに漂う空気は重いまま。
霧峰さんはグラスに注いであった酒を一気に煽った後で、ボソリとこう言った。
「正直、酒で酔う事なんてないんだ。アルコールなんてすぐに分解できてしまうからな。それでも、何というか……飲みたくなる時がある」
彼は高そうな意匠のボトルから新しく酒を自分のグラスに注ぐ。そして、ボトルとグラスを改めてテーブルに置いてから、テーブルの上で酒の下敷きになっていた資料の束を手元にとって揃えた。
「ほれ。国家機密レベルの極秘資料だ。手に取って読んでみろ」
簡単に手渡してくるその手つきと、口から発せられたその言葉の意味は全く正反対。
「国家機密ですか?」
私は安易にそれには手を出さなかった。出せないって言った方が正しい。
「ああそうだ。遠慮しなくていいぞ、奈苗ちゃんの事は信用しているし、読んだところで別段問題はない」
パサパサとぞんざいに扱われる機密書類の束。
「こんなもんが今朝、唐突にハタナカから渡されたんだ。当面の予定がめちゃくちゃさ」
私からは自発的に受け取らないと思った霧峰さんは、立ち上がってからその束を直接ソファに座っている私の膝の上に置いた。
そのまま、ワゴンからオードブルの盛り合わせになった皿を持ってきてテーブルに置く。フォークも忘れずに二人分セットして。
「どうせすぐに焼却するんだ、その紙束は汚しても構わない。適当につまみながら話を聞いてくれ」
霧峰さんはそう言って歩きながらフォークでオードブルのハムを刺して口に運び、自分のソファに座った。
ジッと私が見続けるまま、彼はハムを嚥下した後でまたグラスを片手で持ち直す。そして、グラス越しに部屋の隅を覗き込みながら、誰に話しかけるでもなく口を開いた。
「爺にはな、いつも愚痴を聞いてもらっていたんだ。
何があるわけでもなかったと思うが、何かあった時は、いつも爺は話し相手になってくれた」
口調と仕草からは寂しさと悔む気持ちがにじみ出てるようだった。
わからないけれど、それがお父さんと霧峰さんの本当の関係だったのかなと思案をする。
「奈苗ちゃん相手にそれを求めるのは、お門違いなのはわかっているんだけれどな」
そう言ってから、彼は自分で言った言葉を飲み干すようにグラスをあおる。
そして、そのままもう一杯と酒瓶に手が伸びたところを私は止めた。
「霧峰さん」
「どうした?」
視線を胡乱な目の相手にしっかりと合わせてから私はこう言った。
「話し相手になりますから、その酒、やめてください」
田中さんとの約束もあったが、それは別にして、私自身が愚痴を肴にして酒を飲む霧峰さんを見ていられなかった。
付き合いが長いわけではないけれど、こんなの霧峰さんのイメージに合わない。
無意識に動いていたのか、霧峰さんの目が酒瓶とグラスに交互に動いた後、彼は酒瓶を置いた。
「のどが渇くのでしたら、これを」
と、私はかわりに私に注いでもらったぶどうジュースの瓶を手に取る。
ジュースの瓶と私の顔を交互に見比べた後、ふぅ……と初めて、大きなため息を霧峰さんはついた。
「どうせなら、もっと高級な逸品を持ってくれば良かったな」
それが彼なりの負け惜しみだって事は流石に私にも気づいていた。
彼が差し出してきた綺麗なワイングラスに、私は上までなみなみとぶどうジュースを注ぐ。
”半分ぐらいの量で注ぐのがマナーよ。そうじゃないと香りを楽しめないわ”
「あっ」
注いでしまったのも声を出したのも後の祭りだった。
(イナンナ様、言うの遅いです!!)
”いいのよ、ナナエなんだし”
焦っている私を気にすることなく、霧峰さんは受け取ったグラスを半分ほど飲み干してからテーブルに置いた。
「ありがとう。とても……うまい」
そう言った彼の顔からは、さっきよりほんのちょっとだけだけれど疲れが取れていた。
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