第5話 宿命
俺の体にポッカリと穴が開いた感覚、何も考える事が出来ない。肉親を亡くすと人は皆こんな感じになるのだろうか。親父の葬式には剣道界の重鎮やら何やら百人を超す弔問が来ていた…が俺にはどうでもよかった。
あの日、道場が火事になっていた時点で近所の人が消防に通報しており、賀茂が既に外に到着していた救急隊を直ぐに道場まで連れて来てくれた。気が動転して何もできない俺でも、救急隊員が親父に施す人工呼吸や心臓マッサージを見れば親父が既に心肺停止状態の危険な状態にある事は察する事が出来た。親父が救急車に運ばれて救急病院に向かう際、『誰かご家族の方は?』と言われて初めて母さんの姿が見えない事に気が付いた。俺はオロオロするばかりで賀茂が家に入って母さんを探しに行ってくれた。でもしばらくすると戻ってきて『見つけられない。』と言い、俺を『怪我してる人の息子さんです。』と救急隊員に言って救急車に押し込んだ。
救急車の中、そして救急病院について親父が運び出される時も、俺には現実感がなかった…気がつくと俺は『手術中』と上に赤く灯ったドアの前、白い廊下の椅子に一人で腰掛けていた。現実がいきなり俺の心になだれ込んできた、揺すっても動かない親父の青白い顔、不安で押し潰される。俺はその不安から逃れるように勢いよく立ち上がると首を左右に巡らし誰か見知った顔がないかを探した、がそこには俺以外誰もいなかった、緊張感のある静寂が圧倒的な濃密さを持って俺のいる空間を満たしていた。俺は力無く、いかにも病院のものといった緑色の長椅子に座り直した。そしてまた、俺は不安の中に沈んでいった。しばらくして廊下をこちらに向かって近づいてくる足音に気が付いた。顔を上げるとそこには母さんが立っていた。
「母さん?」
母さんは俺の言葉には反応せず、俺の隣に腰を下ろした。
「母さん、親父が…親父が…」
「政義、
母さんの厳しい口調に俺は驚いて言葉を飲み込んだ。改めて椅子の正面の壁を硬い表情で見つめる母さんを見ると、いつものおっとりした雰囲気はなく、別人のように尖ったオーラを発していた。母さんの変わりように戸惑いながら、不安から俺の口から言葉がこぼれ出た。
「母さん、どこにいたの?親父、大丈夫だよね?」
母さんは『キッ』と書面を見据えたまま黙っていた。その時だった、手術室の奥から物音が聞こえ、その扉が開いた。中から医師らしい人が現れると話しかけてきた。
「篁さんのご家族の方ですか。」
「はい、私が妻です。」
母さんが答えた。医師は母さんの正面に向き直ると説明を始めた。
「景義さんですが…全身の皮膚面積に対して、やけどが占める割合が60%を超えており、加えて気道熱傷、これは気管に熱傷を負う症状を言うのですが、併発していました。我々も最善を尽くしましたが、先ほどお亡くなりになりました。」
そう言って医師は深々と頭を下げた。しばらくの間があり、母さんは『ありがとうございました』と静かに一礼すると椅子の上に崩れるように腰を下ろした。意外だったのは母さんが一切取り乱す事無く、一滴に涙も流さなかった事だった。
その後の事はぼんやりしている。剣道の師範代たちが病院に駆けつけ、その後すぐに親父の葬式の準備が始まった。また親父がどうして命を落とすような火傷を負ったのか俺は警察の聴取を受ける事になった。最初、〝火前坊〟の話をし始めたが聴取を取る警察官から『強いショックを受けたようだね、少し休憩を取るから気持ちを落ち着けて。』と言われて、誰も僕の話を信じてくれないだろう事を俺は悟った。更に言えば自分でも〝火前坊〟は俺が夢の中ででも見た事だったのかも、と実体験としての確信が薄れていた。結局、俺が親父を見つけた時には既に火傷を負っており、状況から事故の可能性はあるが事件の可能性は低いという事で処理された。
家に帰されても俺は現実感なく、親父の葬式に向けて慌ただしく準備が進められていくのを、まるで窓を隔てた外の豪雨でも見るように眺めていた。そしてお通夜と告別式が終わり、親父は荼毘に付された。火葬場で親父の棺桶が火葬炉に入れられる時、叫びだしたい衝動にかられたが、それはどうにか堪えた。ただ、溢れだす涙は止めようが無かった。
***********************
すべてが終わり、俺は母さんと、そして小さな骨壺と一緒に家に帰った。家の中に入ると居間の椅子に賀茂が座っていた。
「なんで賀茂が?」
それに答えたのは賀茂ではなく母さんだった。
「私が忠晶くんにお葬式の終わる時間を見越して家に来るよう頼んでおいたの。」
俺は母さんを見た。改めて酷く憔悴してる事を感じた。喪服のせいもあるだろうが一気に10歳ぐらい老け込んだように見えた。しかし発する言葉には妙な力強さがあった。それは親父が亡くなってからずっと感じていた違和感にもつながるものだった。
「急がなければならないの。二人ともこちらに来なさい。」
そういうと母さんは俺と賀茂を連れて居間を出た。着いたのは親父の部屋だった。
「忠明くん、結界は張られたまま?大丈夫?」
俺は母さんがなんの話をしているのか分からなかったが、賀茂には分ったようだった。
「お母様。大丈夫です、賀茂家に伝わる最上級の、しかも二重の結界が張り巡らされています。神に分類されるような強力な精霊、妖魔でも簡単に気付く事はないでしょう。」
「よかった。少し下がっていて。」
そういうと母さんは親父の本棚にある厚い本をいくつか動かした。すると部屋の壁が振動し、床の間の壁が『ギーッ』と開いた。家の中にそんな仕掛けがある事を俺は全く知らなかった。
「ついて来て。」
そういいうと母さんは開いた床の間の壁の中に消えた。俺と賀茂は母さんに続いた。床の間の壁の中は小さな部屋になっており、そこから梯子が下に降りていた。地下室があるようだった。三人が入ると、母さんは照明のスイッチを入れ、開いた壁を閉めた。するとまた壁の振動が感じられた。多分鍵か何かがかかって、誰か仕掛けを知らない人が部屋に入って床の間の壁を押しても開かないのだろう。梯子を下りるとそこには前に賀茂の家で見たような古書が本棚に整理されていた。母さんは僕らに向くといきなり切り出した。
「景義さんが亡くなった今、速やかに篁家は次の範士を決めなければいけない。それは政義、あなた…あなたしかいない…」
「ちょっと待ってくれ母さん、今親父の葬式から帰ったばかりで…」
左頬に痛みが走ると同時に耳元で『パーン』と音がした。俺は母さんに頬を張られていた。痛みより驚きが脳に衝撃を与えた。
「景義さんが殺されたという事は次の標的はあなたかもしれない。時間が無いの政義。ここに篁家に代々伝わる秘伝書があります。今からこれに目を通しなさい。」
そういう母さんの目には涙が溢れていた。
「ここにあるのは篁家範士としての剣術の技術的な教本ばかり、本来であれば賀茂家と篁家が担う務め、紡いできた歴史から学ぶのが正解だと思う。でもそういった書物はここにはないし、なにより今は時間がないの。」
俺はいつものおっとりとした母さんとのギャップから来る驚きで頷くしかなかった。
「それと…」
母さんはこの地下室の一室に置いてある、背の低い、横に長い箪笥の前に行くと膝まづいてその引き出しを開けた。そして中から親父が愛用していた木刀を取り出すと木刀を両手で高く捧げ持ち、一礼してから膝の上に置くと、
「景義さん、女の私ではあなたのようにはいかないわね…」
母さんは絞り出すようにそう言うと寂しそうに笑った。その頬を一筋の涙が伝って落ちた。その俺が見た事のない表情に、その涙に、俺は親父に対する母さんの深い想いを感じ、それが呼び水となって悲しさと切なさが濁流となって俺の心を打ちのめした。そんな俺にまた力強さを込めて母さんが指示を出した。
「この景義さんの木刀はね“仕込み刀”、細工がしてあるの。刀身に対して柄を時計回りに3/4回転、そして時計の反対回りに半回転、最後にまた時計回りに3/4回転。やってみなさい。」
そういって母さんは俺に木刀を渡した。俺は母さんに言われた通り、柄に手を掛けて時計回りに回そうとした…が柄は回らなかった。勢いをつけて回そうとしたがそもそも回せるものではないかのように動かなかった。
「動かない。」
俺は呟いた。母さんの表情が曇った『そんなはずない』と目が語っていた。
「違う、動かないんじゃない。」
賀茂が口を挟んだ。
「“
そう言うと賀茂は人差し指と中指を立てて自分の額の前にもってくると目をつぶり早口で意味は不明ではあったが何らかの詠唱を行った。そして目を開けるとゆっくりと、優しく木刀に語りかけた。
「お前の主人は亡くなった。その息子がお前の新たな主人だ。若き範士にはお前の力が必要だ。どうか助けてやってくれ。」
数秒の沈黙の後、賀茂は俺に言った。
「篁君、もう一度やってみて。」
俺は再度木刀の柄に徐々に力を入れて回そうとした。しかし最大に近い力を入れても柄は回らず、諦めようと力を緩めようとしたその時、“すっ”と柄が緩んだ。母さんに言われた通り、刀身に対して柄を時計回りに3/4回転、そして時計の反対回りに半回転、最後にまた時計回りに3/4回転…『カチャ』小さい音とともに木刀の柄が外れた。俺は恐る恐る木刀の中から少し刀を引き抜いてみた。ちらりと見えた刀身は鈍い紫色の光を放ち、それ以上引き抜く事をためらわせた。
「篁君、その刀こそ篁家に代々伝わる御剣、“吠え
俺は賀茂の方に顔を向けて大きくうなずいた。
「ありがとう賀茂。大丈夫だ、俺は親父の息子で篁家の範士。まだその意味を理解しているとは言えないが、人の道に外れるような事は絶対にしない。覚悟は…」
俺は心の中で『親父、俺は覚悟した、見ててくれ。』と念じると、抜きかけていた“吠丸”を一気に引き抜いた。その瞬間、体を衝撃が駆け抜けた。“吠丸”を見ると刀身が明暗を繰り返しつつも青白光っていた。それはまるで刀が呼吸をしているかのようだった。
「“吠丸”が篁君を主人と認めたようだね。」
賀茂が俺に言った。
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