第23話 筋肉と雨音の不協和音 その23
それは一瞬の出来事だった。急に足下に現れた水に悠莉と紅葉は驚きを隠せず驚愕の色を見せた。
一体何が起きたのかすぐに状況を理解することができなかった。いいや、正確には判断できる時間も無かった。
悠莉は滑る足場に日頃から鍛えている筋肉でどうにか足を踏ん張ることができ足を滑り落とすことにはならずにすんだ。
どうにか耐えることに成功した悠莉はすぐ横にいた紅葉に視線を向けると頭に筋肉の声が響いてきた。
『限界、限界、限界』
「あ……っ。」
その言葉を現すように紅葉は滑る足場になんとか堪えるように足に力を入れバランスを取るが長くは続かないでいた。
紅葉の右足は水により踏ん張っていた階段から宙へ変わると体事右下に傾き始めた。
「紅葉っ!」
悠莉は落ちていく紅葉に手を伸ばし左手を掴むと自分の方へ引き寄せた。胸元に紅葉を引き込み抱き締めるとこれで落下は免れたかと思えた。
だが、悠莉は不安定な足場で力を込めて引き寄せてしまったため今度は悠莉がバランスを崩してしまった。
「ックソ!紅葉!」
悪態をつく暇も与えられず悠莉と紅葉は宙に放り出された。悠莉は抱き寄せた紅葉の頭を抱え込み階段から落ちる衝撃を頭に加えないようにした。
力強く抱き締めると最初に訪れた衝撃は背中からだった。悠莉は背中にくる強く鈍い衝撃に息を詰まらせた。
「ッがぁ……!っぅ!」
その衝撃で紅葉を抱きしめる手が緩みそうになったが絶対に傷つけないという思いからか、緩めるどころか強く抱き締めた。
それからの衝撃は連続してくるものだった。背中、腕、頭の順番に鈍い衝撃は襲ってきた。
だが悠莉はそんな衝撃を受けながらも抱き締めている手は緩めることはなく頭を守っていた。
「ぐっ!がぁっ!つぁっ!」
何度も繰り返し来る痛みに悠莉は短い悲鳴を上げた。両手で紅葉を抱き締め頭を守るようにしているため自分の身を身を守るための手段を失っていた。
そのせいで全ての衝撃をノーガードで襲いかかっている。そんな痛みの中悠莉は踊り場にいる女子生徒に目が入った。
彼女は転げ落ちてくる悠莉達に驚きを見せず笑みを零しながら見ていた。
普通の反応とは異なる挙動に悠莉は水を放ったのはこの女子生徒だと直感した。
だが直感しても転げ落ちる衝撃とスピードは殺せず悠莉達は速度を上げながら踊り場まで一直線に階段から転げ落ちてきた。
「う……っいてて……。」
「さ、櫻井先輩……!大丈夫ですか……?!」
紅葉は抱き締められた胸元から顔を出して悠莉の状態を確認すると目を見開いた。そこにいたのは痛みで顔を引きずり痛々しい笑みを浮かべていた。
「あ、ああ……何とかな……。紅葉は怪我ないか……?」
動かすと筋肉から『痛い痛い痛い痛い痛い』と警告が聞こえるがそんなのは無視し、紅葉の安全を守れたのかそれが何よりも気がかりだった。
「わ、私は平気です……。櫻井先輩が守ってくれたので……。」
蹲ったまま身動きをせず返答してくる悠莉に紅葉はどうしていかわからず、悠莉の意識が消えないように手を握りしめた。
「そうか、なら……よか……った……。」
悠莉は紅葉が無事だったことに一安心したようで痛みとは違い優しげな笑みを浮かべていた。
そしてそのまま糸が切れた操り人形のように動かなくなり意識を失った。
「さ、櫻井先輩?櫻井先輩……!しっかりして下さい……!」
最後に笑みを浮かべて気を失った悠莉に紅葉は手を握りしめ何度も悠莉に声をかけ返答を待っていた。
しかし何度も呼びかけても悠莉かた返答が帰ってくることはなかった。
階段からの転倒。起こりやすい事故ではあるが今回は意図的に引き起こされた事故で当たり所が悪かったら脳震盪や脊髄損傷になることだって起こりえる。
それ以外にも骨折や打撲と言った怪我が付きまとう危険な行為だ。そんなマイナスのイメージが強く紅葉の頭を浸食してきた。
起きなくなったらどうしよう。
頭は打っていないか、大きな怪我に繋がっていないか。どうしたらいいのかわからない。そんな思いの中で紅葉はただひたすら悠莉の名前を呼び続けることしかできずにいた。
「櫻井先輩!櫻井先輩……!」
倒れ込んでいる悠莉に紅葉は強く手を握りしめ何度も何度も悠莉の事を叫び続けた。そんな二人を嘲笑いながら主犯である女子生徒は壊れたように笑いを見せて二人の様子を高みの見物をした。
「ははは……ざまあみろ……私を馬鹿にしたから。」
罪悪感など一切感じていない女子生徒は乾いた笑みが零れ落ちながら二人の様子を見下し、自分のしたことを詫びれもせずただただ、笑い飛ばしていた。
「ふざけんなよ。」
不意に女子生徒の耳にドスの利いた低い声が降り注いできた。
「は?」
笑い飛ばしていた女子生徒は上から聞こえた声に思わず声を止め階段を見上げるとそこには彼女が一番嫌っている蓮華の姿があった。
「何ふざけた事してんだよお前!」
蓮華は1階と2階の踊り場まで駆け下りるとその女子高生の首を掴み壁に押しつけた。
首を掴んでいる手には力が込められ少しずつ少しずつ女子生徒は酸素を吸うことが出来なくなり軽い酸欠状態になりかかっていた。
「っぐぅ!?く、苦しい……。」
女子生徒は酸素を求めようと首を掴んでいる手を退かそうと抵抗するも、蓮華は動いた瞬間に首に込める力を強め反撃の意志を奪いにきた。
「関係ない人巻き込んで!ふざけるな!」
蓮華は自分のせいで悠莉や紅葉が危険な目にあったことが、机や鞄を濡らされたりされた方がよほど痛かった。
「うぐぅ!?かっ……はぁ……!」
蓮華の手は緩めることを知らず爪を食い込ませる程まで力を込めた。
「お前なんか!お前なんか……!死んじゃえばいいんだ!」
蓮華は首を絞めている手の平から青黒い光を発生させた。その光が女子生徒に触れるとみるみるうちに顔が青ざめ体は震えてきた。
青黒い光の正体、それは蓮華の魔法である『手の平で振れたモノの熱を奪い続ける』だ。蓮華は今女子生徒から『体温』を奪っている。
人は体温が低下すると低体温症を発症する。体温が34℃以下になると体は震えることも無くなり体温を上げる事が出来なくなる。更に悪条件下では3~5時間で死亡することがある。
そして33℃から下にいくと意識は朦朧として最悪意識は失われる。それから筋肉硬直、
呼吸や脈拍が弱くなり20℃になると……心臓は停止する。
「さ、寒……い……くる……し、い……。」
女子生徒は酸素を吸う事もままならずみるみる体温を失い体は寒さで震えていた。まだ震えるだけのエネルギーは体に残っているのを見ると蓮華は更に手に力を込めた。
「そのまま凍死しろ!お前なんか死ね!」
青黒い光は一際強く発光し奪う体温の量を増やしてきた。今の蓮華には大切な人を傷付けられ相手のことを思う余裕はなかった。
目の前の犯人にお灸を据える姿勢ではなく、目の前の犯人を殺すという明確な殺意を込めている。今蓮華は、人を殺そうと魔法を使っている。
「い……や……死にたく……な、い……。」
震えが無くなりつつある女子生徒は辛うじて命乞いの言葉しか出せなかった。勿論そんな命乞いの言葉など聞くつもりは無い蓮華は力を弱めなかった。
「大事な者を傷つける奴なんて死んじゃえばいいんだ!」
「が……ぁ……。」
それどころか蓮華の怒りに油を注いでしまい首を絞めている手には力が込められ残り少ない酸素まで吐き出してしまった。寒さと酸欠の二重の責めに女子生徒はなすがままに死へと向かい続けた。
「……っう……や、めろ……蓮華っ!」
意識を失っていた筈の悠莉からの声に蓮華は驚き女子生徒から手を離し悠莉の元へ向かった。そしてこのまま死に向かうかと思われた女子生徒は蓮華から解放され、悠莉のお陰では何とかな難を逃れた。
「っ!?ぶ、部長……?」
蓮華は悠莉の側にいた紅葉の隣にくると悠莉は意識が朦朧として起きることが出来ず横になったまま蓮華の肩を掴んだ。
「お前……!魔法で……人を傷つけるなって……約束、しただろう。」
朦朧とする中悠莉は蓮華が越えてはいけない一線を越える前に止めたかった。そんな思いからか悠莉は少しの間だけ意識を戻すことが出来た。
「で、でもコイツは!部長や紅葉ちゃんを危ない目に合わせたんですよ!」
「う……あ……死にたく……ない……。」
指を指した方には体を痙攣させ唇を紫色に変え朦朧とする意識の中でひたすらに命乞いをする女子生徒がいた。
悠莉は霞む視界の中で女子生徒の有様を確認すると只でさえ目付きの悪い目を鋭くし蓮華を見た。
「だからってな……魔法で、やり返していい理由に……ならないだろうが……!」
途切れ途切れに言葉を紡ぎ悠莉は何とか声に出した。それに伴い肩を掴んでいる手に自然と力が入った。
「っいつ!ぶ、部長肩痛いですよ……。」
肩に圧縮する痛みを覚えると涙目になりながら悠莉を見た。肩からの痛みは悠莉のお叱りのように思えた蓮華は振り落とす事無く黙ってその痛みを受け止めた。
「頭を叩けない変わりだ……。後で、説教……だから……な……。」
悠莉は言い終わるとすぐに今度こそ意識が完全に途切れ蓮華の肩から手が力無く滑り落ちた。
「部長!しっかりして下さい!」
「櫻井先輩……!櫻井先輩……!」
蓮華と紅葉は只ひたすら悠莉の事を呼ぶしか出来なかった。意識がない悠莉に紅葉は胸に手を置いて名を呼び、蓮華は掴まれていた手を握りしめていた。
「これは酷い状況だね。楓ちゃんは松久先生を呼んできてくれ。私は痙攣している木﨑 瑞樹ちゃんの様子を見るよ。」
「わかりました。すぐに呼んできます。」
それから遅れてやってきた菫と楓は目の前に広がる光景に驚くもすぐに対処した。痙攣している女子生徒に意識を失っている悠莉と側に名前を呼ぶことしか出来ない程錯乱している1年生組という光景に色々と聞きたいことは多かった。
だが先ずは怪我人の治療が最優先と判断した菫は一緒に来ていた楓に保険医である松久を呼んでくるように頼んだ。
楓も菫の考えと同じで最優先は悠莉の身の安全のため後ろ髪を引かれる思いで倒れている悠莉の横を走り抜けた。
菫は痙攣している容疑者候補であった木﨑 瑞樹の元へいき安否を確認するため肩を軽く叩き呼びかけてみた。
「大丈夫かい?こっぴどくやられたようだけど?」
他人事のように軽い声かけをすると瑞樹は菫の顔を見ると目を見開いた。
「あ……う……。」
何かを言おうとしたが体を上手く動かすと事が出来ない様子で喋ることが出来なかった。菫はそんな瑞樹を見下すように隣に座ると注意深く観察を始めた。
「熱を奪う魔法……なるほどね。体温を奪って低体温症を引き起こしたのか、これは興味深い使い方だね。」
瑞樹に一体何が起こったのか気になった菫は現状から考えた。紫色の唇に小刻みに震え蓮華の魔法、それらから得られる答えは一つだった。
「た、たす……け……。」
薄れ行く意識の中言える言葉は最後まで続かずにいた。
「助けて?勿論そのつもりだよ。でもこうして会話が出来ている以上は命に別状は無さそうだね。」
菫は最後まで続かない言葉だったが何を言おうとしているかは理解した。この言葉以外出てこないと確信に近いモノだった。
「さ、寒……い……。」
「体温を奪われたんだから寒いのは仕方ないよ。寒空の下へ投げ捨てられたようなものだからね。」
見るからに寒いとわかるほど体を震わせ唇を紫色にしていた。そんな瑞樹に菫は冷静に状況を冷徹に告げていた。
その態度は瑞樹の心配などしているようでは無くバカなことをした愚者を見る目だった。
「あ、んたが……い……から……。」
菫の愚者を見る目に瑞樹は怒りを覚え震える体に鞭を打ち何とか声を絞り出そうとした。こうなったのは菫のせいだと言いたげに言葉を選ぼうとしていた。
「ありがとうね。お陰で蓮華はちゃんの魔法の威力を人体で確認できたよ。」
「は……?」
何を言っているのか理解が出来なかった。ありがとう?何故感謝されているのか、どうしてここでお礼を言うのか全く理解できない。
「君をけしかければ見れると思ったんだよ。悠莉くんを襲いそれを黙って見ている筈がない蓮華ちゃんが怒って魔法を使うだろうと考えたんだよ。まあ予想通り魔法を使ってくれてこうして直で見ることが出来たよ。」
「ふ、ざけ……るな……!」
一から説明してくれた菫に理解が追いついてきた瑞樹は震えながらも歯を食いしばり手の平で踊らされていた事に怒りと憎しみを感じた。
「ありがとう、哀れな道化師さん。」
菫は満面の笑みで知りたいことを知れたお陰で満足そうに爽やかな表情で瑞樹を使い捨てた。
「うぅ……あぁぁああああぁぁああああ……!」
その叫び声はあまりにも悲痛で悲しい声だった。急な叫び声に蓮華と紅葉は驚き瑞樹の方を見た。そしてその叫び声のせいで朝の階段に野次馬が出来始めた。
悠莉と紅葉が階段から転がり落ちた時から少数の野次馬はいたが今の叫びでその野次馬の数は一気に増えた。
「菫先輩どうしました!?今すごい叫びが!」
「ああ、大丈夫だよ。ちょっと痛いところがあったみたいだよ。驚かせてごめんね。」
叫び声に蓮華は菫の方に駆け出そうとしたが菫は片手で静止させその場で状況を説明した。それ以降瑞樹は気を失いすぐに松久と楓がやってくると二人は保健室へ運ばれていった。
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