第8話 MM部へようこそ! その8

 入学式も終わりクラスは仲のいいグリープが出来上がり始め、浩一郎もその波に乗り遅れること無く中学から友人だった数名の男子生徒と高校で出会った初めての生徒とグループを作る事ができ新しい学園生活をスタートするには順調な駆け出しをしていた。


 高校から魔法使いはA組、それ以外はB組と別れて中学時代の魔法使いの友人とは別れてしまったが、それでも中学から変わらない面子に加え高校に入ってから新しく出来た友人と一緒に学園生活を送っていた浩一郎は不満なんて無かった。


 魔法使いの友人とはすぐ隣のクラスでもあったため寂しさは特に感じておらず放課後や昼休みなどクラスを隔てて一緒に過ごしていた。新しくなった学校に制服、さらに高校生という新たな肩書きに少し大人に近付けたと思っていた浩一郎はこれからの学園生活に様々な希望を描いていた。


 運動部に入り苦楽を共に過ごした部員達と一緒に汗を流し全国優勝を目指してみたり、文化部に入り仲間内で笑って楽しくバカをしながら共に過ごしたり、生徒会に入り生徒のために何か手伝える事は無いか考えたり、学園生活の定番中の定番である恋人を作って恋愛をして人を好きになるのがどれだけ楽しいのか味わってみたいとも思った。


 そんな希望が多かった頃浩一郎にある一つの春が訪れた。その訪れは予兆も無く脳を蕩けさせるような甘い花の香りを漂わせながら音を殺して近付いてきた。


 その花の香りが匂わせ始めたのは、ある日の放課後に友人達と一緒に帰ろうとした際に教室に忘れ物をした浩一郎は友人達に先に帰ってていいと断りをいれてから急いで教室へと駆けていった。


 まるで花の匂いに導かれるように下校時刻ギリギリに教室に入ると中には一人の女子生徒が席に座って夕日が落ちる窓を眺めていた。


 彼女の夕日を見つめる姿が夕日せいで彼女のシルエットは淡く映し出されどこか儚く散りそうな花の命のように見えた。そんな彼女に見とれていると彼女は誰も来ないと思っていたのか急に入ってきた浩一郎に驚きの声を上げた。


「あっ。」

「あ……え、ええっと、こんな時間までどうしたの?そろそろ下校時刻になっちゃうよ?」

「もうそんな時間なんだ。浩一郎君はどうしてこんな時間に来たの?何か忘れ物でもしたの?」

「そ、そうなんだ。課題のプリント忘れちゃって…。あはは……小森さんはどうしたの?」

「私は……ふふっ秘密。」

「ひ、秘密なんだ…。」


 イタズラのように微笑み浩一郎の質問に答えた小森とはこれが同じクラスになってから交わした初めての会話だった。


 夕日が差し込む教室に異性のクラスメイトとの初めての接触という特殊な状況に浩一郎の心臓は大きな音を上げていた。浩一郎は今まで異性との付き合いは無いに等しくクラスで行事を決めるときやグループワークの時など関わらないといけないときに関わり特別仲を良くしたりはしていなかった。


 そのため中学時代は恋愛とはほど遠い場所にいたせいで高校では恋愛をしてみたいと友人達にも言っていない密かな願いがあった。


 高校生になれのなら自分を変えようとするいいチャンスであり、そして今の状況はまさに小森と仲良くなれる機会であるため恋人でなくとも異性の友人は欲しいと思った浩一郎は会話を終わらせないよう何か言葉を繋ごうとした。


「こ、小森さんはいつもこの時間まで残っているの?」

「うーんどうだろう、今日は何となく残っていたけど明日はどうするかわからないかな。」

「そ、そうなんだ。今日はたまたま残っていたんだ……。」


 何とか絞り出した言葉は目を咲かせることは無く成長は止まってしまった。育てきれなかった言葉に浩一郎は短く何度も水を撒こうとしたが何も起きず言葉は枯れだ。枯れてしまった言葉を諦めかけた瞬間、目の前にいる小森が枯れていた言葉に水を撒き浩一郎の変わりに目を咲かせた。


「んー……でも浩一郎は君が明日もこの時間にいて欲しいならいてもいいかな。」

「え!?そ、それって…ど、どういう…。」

「ふふっ、慌てちゃっておもしろいなぁ…。何もすることが無いから相手をして欲しいの。どこにいても退屈でね……なんのスリルも緊張感も味わえない退屈な時間……。そんな時間が嫌だから浩一郎君に手伝って欲しいなぁ……って思ったの。」


 夕日が差し込む窓を見つめ、小森は退屈で深く空いた穴を埋めようとしていた。小森がどうしてそんなことを思っているのかわからないが、小森から感じられる儚さが浩一郎の胸に根を下ろした。


「で、でも僕なんかと一緒で楽しいとは思わないよ……。小森さんの要望に応えられるか……。」

「急に言われても困るよね。あ、一応私は明日もここにいるから。それじゃあ私はそろそろ帰るね。じゃあね浩一郎君。」

「あ、ちょ、ちょっと待って!最後に一つ聞いてもいい?どうして僕の名前を覚えてたの?クラスで話したことってなかったよね……?」


 小森の言葉一つ一つに過剰に反応してしまう心臓に振り回されながらも浩一郎は声を絞りだして聞いていた。どうして名前を覚えていたのか、クラスメイトだから自然と覚えていても不思議ではないが、もしかしたら自分の事を意識してくれていたのかと浩一郎は思春期特有のほのかな淡い期待をして小森に聞いていた。


 そんなことは万が一にでもあるはずがないと言ってしまった後に浩一郎は自己嫌悪しながら沈黙してしまった空気に耐えきれず頭の中で言い訳をしていた。


 そんな淡い期待があるはずないと浩一郎自身わかってはいたが言ってしまった以上後には引けず小森の言葉を待った。


「なんだそんなことか、浩一郎君に興味があったから……っていう答えが嬉しいかな?でもごめんね、本当はクラス全員の名前と顔を覚えているからだよ。」

「そ、そうだよね!ごめん、僕気持ち悪いこと聞いちゃったね…。」


 一時もしかしたらと期待したがその淡い期待はすぐに音を立て砕けた。自意識過剰で気持ち悪いことを聞いてしまったと後悔していると小森は浩一郎の心を全て見透かしたように笑い席を立ち上がった。


「そんなことないよ。私はおもしろかったから。それじゃあまたね、明日も楽しみにしているね……浩一郎君。」

「う、うん!また明日!……え、また明日も……?っていうことは明日も話してくれるってこと?で、でも明日もいるって言っていたし……。どういう風に捉えたらいいんだ……?」


 小森は別れ際に言葉を残して教室から出て行くと教室に残された浩一郎は小森の別れ際の言葉が頭にこびりつきその場に固まってしまった。


 『明日も』と言われて浩一郎は今日と同じようにしていいのか、それともただの言い間違いで深い意味は無かったのか思考回路が全てその言葉の意味に回って見回りにきた先生に注意されるまで動かず考え込んでいた。


 その日の帰り道も家に帰った後も小森の言葉が気になりその日ずっと小森の事を考えていた。そして、もしこのまま小森と仲良くなり友人から恋人までいけたらと妄想してしまう自分に自己嫌悪するも胸の高まりが抑えられない状態に浩一郎は小森に好意を抱いていた。


 それが全ての始まりで、甘い香りに誘われた先が茨道で雁字搦めにされる危険な場所への招待状だとは知りもせず、今はまだ甘い香りの夢心地の上にいた。




 次の日学校に登校してからずっと浩一郎の目には小森が写っていた。教室での彼女の様子は昨日夕日に満ちた教室で見たような憂いはなく明るく誰とでも仲良く話しているクラスでも人気がある方だった。


 昨日の様子とはまったく違う彼女に昨日見たのは見間違いで夢でも見ていたのではないかと疑い始めた。それから友人達と一緒に話している間もずっと小森の様子を伺い返事がすべて上の空になって何度も友人から注意されたが、浩一郎の耳にはまったく入ってこないまま素通りしていた。


 心配している友人を横に、浩一郎の視線と頭は小森の事で膨れ上がり結局放課後まで小森の事だけを考え続けているといつの間にか辺りは昨日と同じように夕日が差しこむ教室へと変わっていた。


 どれぐらいの時間呆然と小森の事を考えていたのか、教室にはすでに人は消えており帰り際に友人から心配され声を掛けられた事を辛うじて思いだすが自分が何と答えたのか思いだせなかった。


 おそらく無意識のうちに答えていたのだろう、ポケットに入れてあったスマホから短いバイブ音が鳴り確認すると友人から今日はどうしたのか心配しているメッセージが届いていた。


 メッセージをわざわざ送ってくるほど友人に心配されていたほど小森の事を考えて上の空になっていた自分に我ながら呆れてしまった。


 すぐに今日の事を謝り心配を掛けてた罪悪感が大きくなり机の上に頭を伏せながら頭を抱えて大きく溜息をついた。


「大きい溜息だね、何かあったの?」

「うわぁっ!?こ、小森さん!?きゅ、急にビックリした……。」


 声の聞こえた方を見ると大声を出してしまったせいで目を見開いている小森の姿があった。


「そんなに驚かれるとは思わなかった。それより今日も来てくれたって思ってもいいの?」

「え!?う、うん……来たというより考え事してて気付いたらこの時間になっていたというか……。」

「考えごと?何か悩みでもあるの?」

「な、悩みというかなんというか……。」

「当ててあげようか?今日の放課後私がここにいるか考えていたでしょう。違う?」

「え、えっとそれは……。」


 机に頭を伏せている間にいつの間にか小森が近くに来ていた。誰もいないと思って大きな溜息をついてしまいそれを小森に見られたことに恥ずかしさを感じながら昨日と同じように挙動不審になりながらも話していた。


 小森にみっともないところを見せてしまい只でさえ恥ずかしい気持ちになっているにも関わらず、小森に悩み事まで当てられてしまい浩一郎の顔は全面真っ赤に染まっていた。そんな浩一郎の反応を面白がるように小森は薄ら笑みを浮かべながら浩一郎の羞恥心を小突いていった。


「ふーんずっと私のことを考えてくれてたんだ。だから今日ずっと上の空だったんだね。」

「そ、それは…そうだけど…。」

「へー、上の空になるほど私のことをね……。」

「き、昨日のことが夢じゃないかわかんなくなって、小森さん教室では今みたいにつまらなそうな表情してなかったから…。僕の幻覚だったのかなって……。」


 恥ずかしさから自分でも何を言っているかわからなくなっていた。昨日から変なことを言ってしまって今度こそ愛想を尽かされたかと緊張したが小森は浩一郎の言葉にどこか考えながら自嘲しながら呟いた。


「幻覚……か、どっちかというと今が本当の私で日中の笑顔を貼り付けている方が幻覚だよ。」

「そ、そうなの?」

「うん、だから本当の私を知っているのは浩一郎君だけ、クラスの誰も知らない私を知っている唯一の人だよ。つまり……特別な人。」

「と、特別な人……。」


 自分は他のクラスメイトや小森の友人でさえ知らない本当の小森を知っていて、小森から言われた『特別な人』という言葉が自分は今彼女にとって特別な関係を築き上げられている他者には無い関係性と、特別と言う言葉が心地よく体全体に染み渡り、心が満たされ快楽に似た甘い蜜を味わっていた。


 その甘い蜜は浩一郎を貪り尽くす禁断の味になりここから引き返せない世界に踏み込んでしまった。


 小森は自分の言った言葉を浩一郎が疑わずしかもわかりやすく赤面し動揺しながらも満更でも無い様子を見ると、甘い香りに誘われて迷い込んだ獲物に笑みを浮かべ自分の欲求を満たすまで逃がさないとこの瞬間に浩一郎は小森に取り込まれた。


 自分がすでに小森に取り込まれていることなど知らないで小森の言葉に浮かれている浩一郎は嬉しそうに小森に話しかけた。


「そ、そっか小森さんと特別な人。な、なんか照れるな……。あ!?えっと深い意味は無いよ!?こ、こ、恋人だとか言うつもりも無いし!?」

「そんなに慌ててると逆にそう思っちゃうよ。」

「あ、そ、そっか…ごめん勝手に盛り上がって……。」


 何度目の失言になるか数えるのを止めてしまうほど浩一郎は自分に呆れた。特別な人と言われたからといって話し始めて2日目で恋人などあまりにも幸せな思考回路だ。


 だが女子とまともに話せたのが小森が初めてだった浩一郎にとっては否が応でも心が浮き足立ってしまった。


「私は別にその関係でもいいけど。」

「ええぇっ!?そ、その関係って……こ、恋人!?」


 失言のつもりでいたのに予想外の言葉に浩一郎の心臓は一気に高鳴り身を乗り出した。浩一郎が身を乗り出しても小森は笑みを絶やさず迷い込んだ獲物が水面下に現れたのを確認できた。


 そしてその獲物を逃さないように甘い香りへの道案内を始めた。


「うん、昨日今日と浩一郎君と話してみておもしろかったし、誠実そうな人だなって思ってたから悪くないかな……なんて、偉そうなこと言っちゃったね…。でも一日中私のことを考えてくれてたのは……嬉しかったな。」

「ぼ、僕も小森さんともっと仲良くなりたいって思っていたけど…で、でも急に恋人っていいのかな……ぼ、僕は嬉しいんだけどね!?でもほらまだお互いまだ知り合ったばっかりだし……。」

「そう?私は恋人になってから知っていくのもいいと思うよ?煮え切らないって言うならしょうが無いな……。チュッ……」


 突如浩一郎の頬に柔らかくほのかに暖かな感触が伝わってきた。


 先ほどまでは小森と隙間ができていたはずがいつの間にかその隙間は消え去り、その隙間にあった空間に小森の体が入っており浩一郎との距離はゼロに等しく密着状態になっていた。


 その事を理解してから浩一郎はようやく小森の顔が自分の横にあり、そして頬に口付けをされたことに気が付いた。


 始めて味わった異性からのキスに浩一郎の脳は未開な感覚と理解できない出来事に処理が追いつかず、小森が顔を離して小森の照れている表情を認識してようやく遅れて反応できた。


「え……い、今キス?キスされた……?」

「ねえ……返事が欲しいけどいいかな?ここまでしたんだから保留は無しね。」

「は、はい……。えっと、ぼ、僕なんかでよかったら…よろしくお願いします……。」

「よろしくお願いね。それじゃあ恋人になったんだから証拠が欲しいな。私もしたんだからもちろん浩一郎君もしてくれるよね?」

「は、はい!が、がんばります!えっと……じゃあ失礼します。」

「んっ……。」


 静かに目をつむり唇を前に出してくる小森が何を欲求しているか恋愛経験の無い浩一郎でもすぐにわかった。


 始めて自分から行う異性へのキスに浩一郎の心臓は昨日の比ではないほど大きな音を叩き出し近付くにつれその鼓動は頭にまで響き渡り震える体で小森の肩に手を置きゆっくりと小森と口付けを交わした。


 その口付けは先ほど感じた甘い蜜よりも濃厚で味覚だけでなく嗅覚や触覚にまでドロドロに絡み付き、絡まれたところが少しずつ……少しずつ……溶かされていく錯覚まで覚え、頭が溶けてしまいそうなほどの甘く心地のいいキスに浸っている浩一郎は幸せの絶好期にいた。


 これから恋人もできて二人で色々な事を共有しあいながら特別な思い出を過ごしていけると新しく学園生活が始まっていく夢を見ていた。


 だがそんな夢はすぐに壊される事になる。現実にはそんな夢などありもせず、これから始まろうとしているのは蠱惑の花に魅入られ逃げることも覚めることもできない悪夢だった。そしてすぐにこの口付けは恋人としてのスタートを祝うものでは無く、悪魔との契約のための口付けだったと思い知らされていく。

 



 それから数日後二人はクラスにはお互い付き合っていることは隠しながら、教室では特別仲良くせず放課後、教室が夕日に染められオレンジ色になったのを合図に二人は恋人になる時間が始まる。


 浩一郎は小森と付き合い始めてから友人に心配されることも無くなり普段通りに学園生活を送って友人達からも怪しまれる事無く小森との関係を続けていた。小森の方も友人達にバレず浩一郎との秘密の関係は周りに勘づかれていなかった。


 いや、まだ誰も浩一郎の危険に気付く事は無く、浩一郎自身も自分が浸食されている片鱗すら気付かずに順調に小森との恋人関係を続けていた。


 この作られた幸せな時間に浩一郎は疑いなど持たずこの関係が長く続いていくと心から思っていた。だからこそ今日小森に言われた事を信じることはできなかった。


「ねえ浩一郎君、実はお願いがあるんだけどいいかな?」

「改まってどうしたの?」


 小森との二人きりの時間に入り浸っていた浩一郎は初めて小森からされるお願いに胸が高まった。

 

 ここ数日でわかったことだが小森から何かをお願いされたり頼られることは無く、むしろ浩一郎が小森に頼ったり話を聞いて貰うことが殆どだった。だから今回小森からお願いされるのが男として頼られている感じがして居心地が良かった。


「あのね…、私今がスゴく楽しいし幸せを感じるの。」

「ぼ、僕も小森さんと恋人になれて幸せだよ。あはは、面と言われると照れるね……。」

「うん……とっても幸せ……。だからね、今この幸せな時から一気に絶望までしたら気持ちがいいと思わない?」


 必ず幸せが待っていると信じて疑わず、現実を知らないまま花嫁を夢見る幼い子供のような純粋な目で小森は狂言を口にした。


「え…どういう…こと…?絶望したらって…何をいってるの…?」

「今本当に私は幸せで絶頂期なの、でもね絶頂期ってそれ以上の上にはいかないの。どんなに幸せでも天井がついてる。絶頂期である以上何をしてもそれを超えることはできない…。でもね、その絶頂期以上の快楽を私は知ってるの!幸せだけじゃ足りないし到達できない、必要なのは幸せの絶頂期から一気に地の底の絶望までの差、一気に絶望に堕ちることで幸せを感じられるの!だから…一緒に絶望しよ?」


 恋人同士になれる淡い夕日が差し込む教室から明かりが消え夕日で出来た暗く深い影が教室を包み込むと、恋人同士の柔らかな教室は一変し薄暗く不気味な森のような教室に浩一郎は頭を打たれ夢からたたき落とされ悪夢に堕ちる感覚に囚われた。


 小森は今まさに絶望している浩一郎を羨ましそうにそして物欲しそうな瞳で見つめたまま浩一郎との距離を詰めたじろぐ浩一郎の両肩を掴み、爪を食い込ませながら捉え浩一郎の表情を目に留めたまま一気に顔を近づけた。


 その表情に得体の知れない恐怖を感じながら顔を反らす事もできず小森の目に食われていた。


「ああ……いいよぉ……その表情スゴくいい……。もう、浩一郎君だけそんな幸せを味わってズルいよ!速く私にもその幸せを味わらせて……。」

「いっつ……!小森さんおかしいよ!なんでそんな嬉しそうにしているの!?幸せから絶望したい?幸せでいれるのならそれでいいじゃないか!」

「何言ってるの?私は今以上に幸せになるために絶望したいんだよ?幸せでいいなら手伝ってくれるよね?」


 浩一郎の言っていることがわからないと、さも当然と言うばかりに小森は小首をかしげた。

「そんな……小森さんを絶望させるなんて……僕はしたくないよ……。僕は小森さんにそんなことはできない!」


 浩一郎は小森から両肩を爪を立てながら押さえつけられ鋭い痛みが残っているが、小森のいう絶頂期から絶望して幸せを得るという考えに納得ができず、浩一郎は震える体で、声だけはでせるため、その声に全てをぶつけた。


「僕は!小森さんに酷いことをしたいとは思わない!」

「そう……それはとても悲しいわ。でもそれ位の悲しみじゃあ私は絶望しない。もし浩一郎は君がこっちを手伝ってくれ無いのなら、私は……自殺するよ。」

「な、何を言っているの小森さん!絶望するために命を捨てるなんて間違っているよ!」


 自分の命をダシに追いつめてくる小森から平気で命を捨てようとする狂行への恐怖とその狂行を笑顔で玩具を遊ぶ子供のように楽しそうにしている小森に恐れを感じた。


 本当にあの夕日が差し込む放課後で憂いに満ちていた小森とあまりにもかけ離れた存在に同一人物なのか疑っていた。


「だからこれは契約、私の事を叶えてくれるなら私は死を選ばない。そしてこれから浩一郎をずっと愛してあげる。」

「僕は……どうすればいいんですか……。」


 ここで断れば小森は間違いなく死を選ぶと感じた浩一郎の選択肢はすでに一つに決まっていた。


「小森 茜は男遊びや援交を楽しんでいて彼女の後ろには大学生や不良がいるっていう噂を教室に流して。まずは様子見をしたいからこれが今のお仕事かな」

「わかったよ……。そうだ……やり終わったら小森さんは元に戻るんだ。……きっとそうに違いない。」


 小森の毒牙がついに浩一郎に貫き刺しそれは決して抜けず傷口は癒えること無く毒を注がれる。どこにも逃げられず、逃げようとするなら人質の浩一郎の初恋の人を失い不幸になってしまう。


 しかし今をどうにか解決できてもお互いに一緒に支え合って小森はまた絶頂期をかんじたら今回と同じように平気で積み上げてきた物を壊ししまうだろうそんな終わりの無い連鎖に雁字搦めにされた浩一郎は耐えきれなかった。


 だがここで耐えきれず逃げてしまえば小森は本当に自殺をする確信があり小森を救うため、そして自分の心の安定を守るためこの日から浩一郎は小森ということを聞く愚者に成り下がった。




 それ以降浩一郎はすぐに友人に小森が援交や男遊びをして大学生や不良達と関わっている危険な人物で関わらない方がいいと噂を話した。


 その友人は急な話に信じていない様子で、むしろ切羽詰まった状態の浩一郎の方を心配していたが今の浩一郎にとって友人のその優しさに意味は無く小森が自殺しないように彼女の欲求を叶えなければいけないと強迫観念に取り憑かれていた。


 友人はそんな異常な状態の浩一郎の言葉を信じられなくとも頷かないといけないとばかり頷き、言われたとおり小森の噂をクラスに流した。


 最初はいつもいる友人達に、そしてそこから友人の友人へ、また友人の友人の友人へと伝言ゲームのように簡単に噂は流れ出し小森が孤立するのに時間はかからなかった。


 こうして小森が孤立し彼女の言う絶望まで堕ちたと思った浩一郎は以前と同じようにオレンジ色になった教室で小森と話をした。


 もうこれで終わりで小森の欲求は満たされまたあの時のように恋人同士に戻れると期待していた浩一郎の考えは愚かなほど楽観的でまだ小森の本質に辿り着けていなかった。


「小森さん、教室ではもう孤立してもう十分でしょう?だからさ、僕達また恋人に…!」



「何で話しかけてくるの?」



 思い上がっていた浩一郎を叩き落とすには十二分過ぎるほどその言葉はあまりに鋭く冷たかった。


「……え?」

「あんなのじゃ全然足りない。浩一郎君がまだ私に気を遣って心配してくれてるせいで私の中にまだ安心感が残ってるの。それも無くして本当に何もかも失って始めて得られるのに……浩一郎君がそんなんだと、もうダメかな。」


 溜息と共に浩一郎に見切りをつけた小森は鞄からカッターを取り出し、刃を出すのを見せつけそのまま刃を手首の上に置いた。


「ま、待って!僕が心配してたのは謝るから!お願いだから自殺だけはしないで!」

「……だったらちゃんと私を追い込んで絶望させてとびっきりの快楽を頂戴ね。」


 手首に置いた刃を仕舞いそのまま鞄に戻すと浩一郎にもう一度チャンスを与えるよう笑みを浮かべた。


 笑っている小森が悪魔のように見えた浩一郎はもう引き返す事ができないところまで来てしまいようやく自分がどれだけの危険な場所に引きずり込まれたのか理解した。


 彼女の欲求は中途半端なものでは満たされず本当に全てを奪って嬲って叩き堕とさなければ満たされることは無いのだろう。自分が追い詰めないと小森は自殺してしまう。満足させ無いと死んでしまう。


 小森を助けるために本気で自殺に追い込むほど追い詰めないといけない、そうしなければ小森は自殺するという矛盾する考えが浩一郎の脳を侵していき、すでにまともな判断を下せる正常な考えは失われており浩一郎は小森を追いこむ覚悟を決めた。


 それからはクラスで小森と話そうとする人が現れたら間に割って阻止し、さらに噂の内容にも信憑性を高めるため実際にその現場を見たと出任せを言ったり、急にMM部に行くようになった小森の後を付け気付かれないように盗撮をするとそれを宛先人不明の状態で送りつけるといったように徹底的に小森を追い詰めるようにした。


 小森から放たれた甘い蜜の香りに犯され尽くされた脳には始めに感じていた罪悪感や戸惑いなど既に溶けて無くなり小森を死なせない……、あの甘い蜜をまた味わいたいという本能だけが残っていた。

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