第86話 疵痕

「やられた」

 太一の運転する車で、はるを一度、マンションで降ろした後、二人は仕事場に向かっていた。

「何、昔言ってた、ほとんど台本ないやつ?」

「そう。やられた」

 窓に目をやって。

 ずっと、日高はそれだけをくり返していた。

「に、しては、声が明るいじゃない」

 太一が言った。

「久しぶりだったから。ああいうお芝居。心が揺れ動くなんて、あんまりなかったから」

「そっか」

 日高は。

「やられた」

 もう一度。

 呟いた。



「ただいま」

「お帰り」

 はるが、日高を出迎えた。

「………」

 日高は、ゆっくりソファに腰をかけると。

「ねえ、はる、そこ座って」

 はるを見上げて、そう言った。

「……うん」

 はるは、日高の横に座った。

「今日の第三公あれ演、楽しかったよ」

「本当に?」

「うん」

「怒ってない?」

「怒ってないよ。びっくりはしたけど。あっ、やられたって思った。でも」

「でも?」

「舞台の上なら本音が出るんだね、私。根っからの女優なんだって思ったよ」

 日高は微笑わらった。

「………」

「あれ、全部本音だよ。私が愛してるのは、やっぱり、はるだけなんだよ。本当に、はるだけ。寂しい思いをさせちゃってごめんね」

「……日高、ごめん、わかったからそれ以上言わないで。今日は泣きたくないの。時間がもったいないから。日高と向き合いたいから、お願いだから言わないで」

「わかった」

 頷いて。

「ねー、抱きしめていい?」

 日高が言った。

 今にも泣きそうな表情かおで、はるが頷くと。

「はるー」

 って。

 日高は、はるを抱きしめた。

 結局。

「日高ぁ」

 って。

 日高の腕の中で号泣しちゃったけど。

 疵痕きずあとを残して。

 二人もまた、恋人同士に戻っていった。

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