其の十一「黒い三つ編みの男」
あたし達が家に帰ってきたとき、いつものように気をつけて入ったのにジェシュが外に飛び出した。お姉ちゃんが大きな荷物を入れるためにドアを開けたまま四苦八苦していたからだ。
猫がすり抜ける隙間なんていくらでもあった。初めての外にワクワクしていたのかもしれない。黒猫はすぐに道路へと飛び出して行き、見えなくなった。
そして、お姉ちゃんもそのあとすぐに飛び出した。大荷物を放り出して、すごい音がするのも気にせずに。あたしも当然あとを追いかけた。ジェシュは小さな頃からお姉ちゃんが面倒を見ている大切な家族だから、当然だった。
あたしには全然懐いてくれないからちょっと嫉妬していた部分もあったけれど、あたしにとっても弟のようなものだから、ただ純粋に心配だった。
今までは気をつけていたとはいえ、今回はあたしとお姉ちゃんの不注意だったのだから。
足の速いお姉ちゃんと、猫のジェシュにはさすがに追いつけない。
あたしはすぐに見失ってしまったけれど、お姉ちゃんの悲痛な声で居場所がすぐに分かった。
悲鳴を聞いた時点でなんとなく想像はついていたけれど、ジェシュは黒いツヤツヤの毛皮を真っ赤に染めてお姉ちゃんに抱き抱えられていた。
「お姉ちゃん! ジェシュ見つけ…… ジェシュ!? そんなっ」
腕も変な方向に曲がっていて、お腹の中がぐちゃぐちゃで、切り傷のような箇所も多くて、正直直視するのはおろか、抱き抱えるなんて信じられないくらい酷い状態だった。
そんなジェシュを抱えて泣いているお姉ちゃんは精神的にどうにかしていたんだと思う。
あたしはゆっくりと言い聞かせるように、年上のお姉ちゃん相手に話しかけた。
「お姉ちゃん、ジェシュを連れて行こう? お父様とお母様に言わないと」
「いや、いやだ! ジェシュはまだ大丈夫……」
「お姉ちゃん……」
やっぱりお姉ちゃんはどうにかしている。
大事な弟の非常事態にものすごく混乱しているんだ。
あたしがしっかりしなくちゃ。両親を呼んで居場所を伝えないと。
「お姉ちゃん、あたしお母様達を呼んで来るわ。だから、ちゃんと待ってるのよ。風邪ひかないように、せめて端に避けて……」
雨まで降り出してきた。
でもあたし達は当然傘なんて持ってきていない。このままではずぶ濡れになってしまうからと、お姉ちゃんに言い聞かせたけれど、多分効果はないだろうな。
「待ってるのよ?」
こんな状態のお姉ちゃんを置いていくのは気が引けたが、両親もあたし達を探しているはずだ。早く報せないといけない。
…… 両親を連れて帰ってきたとき、真っ赤な色なんて見当たらないジェシュを抱えたお姉ちゃんがいた。
「見てアリシア! ジェシュが見つかったのよ!」
信じられなかった。
お腹の中身まで出ていた黒猫は一切の傷もなく、お姉ちゃんの腕に収まっていたのだから。
すうすうと寝息を立てている彼に恐る恐る手を伸ばす。
温かく、ふにふにと柔らかい。確かに生きていると感じる。
「うそ……」
あたしは両親にこっ酷く叱られた。
ジェシュが死んでしまったなんて、酷い嘘を吐いたのだと糾弾されたのだ。嘘なんてついていない。でも、あの惨状を見ていないのなら信じられなくても仕方がなかった。だって、あたしが1番信じられなかったんだから。
それからジェシュは何事もなかったかのように毎日を過ごした。
対して、お姉ちゃんは…… 怪我をすることがすごく増えた。
それも、あたしが覚えている限り…… ジェシュが負った小さな傷と全く同じ場所を。ジェシュの大怪我した部分はお腹と左腕。そして左目だ。他は細かい擦過傷や打ち身、それに骨折して骨が突き出していたというもの。
そのうちの、小さな傷をお姉ちゃんは彼と全く同じ位置に受けるようになった。
これはあたしの勘違いなんかじゃない。勘違いで片付けたら、取り返しのつかないことになると、なんとなく気づいていた。
日に日に傷が増えて行くし、日に日にその傷の規模が大きくなっていく。
そんなときに、今回の轢き逃げ未遂だ。もう少しでお姉ちゃんは車に轢かれるところだった。あたしが手を引かなければ、あのときのジェシュのようにお腹の中身をぶちまけていたのかもしれない。
あたしは、もうあの黒猫のことを愛せない。
きっとジェシュはもう既に死んでいて、別のなにか…… たとえば悪魔とかに成り代わられているのだ。
悪魔はお姉ちゃんを連れ去ろうとしている。防がないと。お姉ちゃんは渡さない。お姉ちゃんを死なせてたまるものか。
悪魔はお姉ちゃんのいる病院にまでやってきた。
どうしよう。どうしよう。追い払いたくても、ジェシュが近くにいるとお姉ちゃんが喜ぶからできない。お姉ちゃんに嫌われたくはない。
そして、前日まで元気だったお姉ちゃんが眠りから目覚めなくなってしまった。原因は不明だという話だけれど、きっとジェシュだ。あの悪魔がお姉ちゃんを捕らえているのだ。
でもあたしにはどうすることもできない。それが悔しくて、悔しくて、何度も泣いた。
毎日お見舞いに行った。学校なんかどうでもよかった。お姉ちゃんが戻ってきてくれるなら、他にはなんにもいらなかった。
そしてその日もあたしはお見舞いに来ていた。
そんなときだった。長い黒髪で、スーツを着た男に会ったのは。あたしの他にもお見舞いに来ている人がいたのだ。
「おや、ご家族ですか?」
「…… ええ、あなたは? 知り合いにあなたみたいな人、いないと思うんですけど」
「諸事情により彼女とは知り合いなのですよ。黒猫関連でね」
「ジェシュの?」
「ええ、その黒猫の」
あたしは詳しく話を聞くことにした。
この人がジェシュのことについてなにか知っているのは間違いなかったから。
「ふむ、ではその黒猫に悪魔が憑いていると? にわかには信じがたい話ですが」
「でも、そうじゃないとおかしいのよ。そうじゃなかったらあたしが見たものは一体なんなの? 幻覚とでもいうつもり? お姉ちゃんの服はジェシュの血で真っ赤だったのに! あたし達が愛してた弟はもういないのよ! あなたもあたしが嘘つきだって言うの!?」
「いいえ、そうですねぇ…… 嘘つきついでに、こんな戯言はどうでしょうか。私はオカルトな方面にも精通しておりましてね。あなたが望むのならば、その悪魔を退治することもできるかもしれません」
「それ、本当なの?」
「1人の男の、ただの戯言ですけどね」
「本当かどうかを聞いているの!」
オカルトだろうとなんだろうと、おかしな事態に対処するならおかしな手段を取るしかない。この胡散臭い占い師のような男を選んだのは、藁にもすがる思いだったのだ。
多分、もっとまともな見た目の占い師がいたら同じインチキだったとしてもそっちを頼っていただろうし。
「私の言うことを信じるならば、お姉さんの部屋を探してみるといい。不思議な本が、そこにあるはずですから。見つけて、それでなおお姉さんを助けたいならば、この指定した場所に来てください。いいですね? ご両親には知らせないように。知らせたら方法なんてお教えしませんよ」
怪しさ満載の悪魔の誘い。きっとこれも、悪魔の仕業なのかもしれない。
けれどもう、縋るものはこれしかなかった。
「誰にも話さないわ」
「くふふ、お利口さんですね」
すぐさま家に帰って部屋を探した。探して、探して、そしてそれを見つけた。
「お姉ちゃん…… ?」
不思議の国のアリスの本。
お姉ちゃんがあたしのことをアリスとニックネームで呼ぶ原因になったほど大切にしていた本。
その本の中に、確かにお姉ちゃんの姿があった。女王様として、平和に暮らしている内容だった。
「見つけたわ。誰にも話してない。それで、どうすればいいの?」
一週間後に男……
護身用の折りたたみナイフと催涙スプレーを持ってきたけれど、油断はできない。距離を保って話し合いに踏み切った。
「上出来です。褒めてさしあげますよ。それではご褒美です」
男は一枚のメモ帳を取り出した。
「これは〝
信じられない話だった。
けれど紙面で自由自在に蠢く不気味な魚を見て、本物だと確信した。
「本当に、あたしには影響しないの?」
「現実にいる人間に干渉することなんて、できませんよ」
あたしはそいつの手を取った。
あたし自身の手でお姉ちゃんを助ける。そうするしかないのなら、オカルトでもなんでも頼る。
そして、紙面から飛び跳ねるようにして空中に浮かんだ妖紙魚がアリスの本に入る直前に、その尻尾を掴む。
とぷん、と本の中への侵入はプールに飛び込んだときよりも優しい感触で行われた。
「ここが本の中……」
あたしが辺りを見回すとそこは大きな木のある丘で、本の1番最初にある白い兎の出る場所だと気づく。
そういえば、さっきの魚はどこに?
そう思って背後を振り返った瞬間、魚のヒゲがあたしの目を覆い隠し、そして…… 意識が吸われていくような感覚と共に、目の前が真っ暗になった。
「くふふ、現実の人間には影響を及ぼしません。現実にいる人間には、ね。本の中に入ればそれはもう登場人物と変わらない。そうですよね? くふふふ、くふふふふふふ……」
悪魔よりもっと性質の悪い、邪神は嘲笑うようにその場を後にした。
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