扉を開ける者達(2)――絶望の中で吹く風

 相手の動向を常に気にしながら進んでいるためか、激しい動きをしていないにも関わらず、疲れを感じる。それはロカセナも同じらしく、彼の足取りは段々と遅くなっていた。手を差しだそうとしたが、首を横に振られて断られる。

 魔宝樹の裏手側に辿り着くと、ロカセナは軽く額の汗を拭ってから、呼吸を整えながら大樹の根本から枝葉までじっくり見始めた。

 葉が枯れているだけでなく、枝先にも栄養が渡っていないのか、枝が全体的に萎びている。樹全体が死ぬのも時間の問題かもしれない。

「この状態だと、ドラシル半島に戻せたとしても、思うような結果が得られるかどうか……」

「無駄ってことか? もう何をしても遅いのかよ!?」

 フリートは声を荒げる。ロカセナはすぐには答えず、少ししてから右手を魔宝珠に近づけながら呟いた。

「樹が生きていれば逆転は可能だ、きっと……」

 触れるとロカセナの目が大きく見開いた。途端に目を閉じて、その場でうずくまる。

「どうした、ロカセナ!?」

 屈んで声をかけると、ロカセナの顔色は酷く青ざめていた。自分の両手で震える全身を抱きしめている。

「おい、大丈夫か……?」

 触れようとすると、激しく手を払われる。すぐに彼ははっとした表情になり、ばつが悪そうに言った。

「すまん……。少しだけ意識を持っていかれていた」

「持っていかれた?」

 軽く樹に目を向けてロカセナは答える。

「この魔宝樹は僕たちが望んでいる樹ではない。人々の負の感情が浄化されないまま留まっている。だから触れただけで、その感情が流れ込んできたんだ」

 負の感情――嫉妬、憎悪、悲しみ等、それらの感情を無理矢理与えられたら、取り乱すのは間違いない。

 ロカセナは未だに肩を上下させていた。

「負の感情に乗っ取られて、我を失っている樹をドラシル半島に戻すのは厳しいだろうし、もし戻せたとしても、後々半島全体に悪影響を及ぼす可能性が高い」

「どうにもならないのか?」

「……何もせずに、ここから出る方法を考えた方がいいかもしれない」

 容赦のない通告にフリートは顔をひきつらせた。樹のことについては、ロカセナの方が遙かに知識は持っている。この極限状態で彼が嘘を言うのは考えにくい。

 フリートは希望の樹から、絶望の樹に変わりつつある魔宝樹を見た。このまま何もせずに見捨てるしかないのだろうか。

 樹をじっと見ていると、自然と惹かれていく。思わず手を伸ばそうとしていた。

「やめろ、フリート!」

 ロカセナの制止の声を聞いて、フリートは我に戻る。手はあと少しで樹に触れるところだった。

「触れても何も利益はない。状況が悪化するだけだ」

「あ、ああ。悪かった。止めてくれて、ありがとう」

 手を引っ込めるとフリートは魔宝樹から一歩離れて、視線を樹以外に向けた。見つめ続けていれば、意識が引き寄せられて触れたくなってしまう。有難い存在が、今ではとても厄介な存在になってしまった。

 ふと、フリートは樹の傍で倒れている娘を思い出す。そしてある一つの考えが思い浮かんだ。

「ロカセナ、リディスが倒れているのはもしかして樹に触れたからか?」

「それはあり得るね。ラグナレクを樹に突き刺したということは傍まで来たはずだ。その時に触れたのかもしれない。……このままだとリディスちゃんの意識はあちら側に持っていかれたままだ」

「なら今すぐにでも、あいつをこっちの世界に戻す必要があるだろう! 負の感情がうごめいている世界なんて、精神的に耐えられるものじゃねえ!」

 その言葉に同意するかのようにロカセナは首を縦に振った。しかし表情は非常に険しい。

「その通りだ。だがどうやって戻すつもりだ?」

「顔でも叩けば戻らないのか?」

「意識を操るっていうのは、そう簡単なものじゃない。あの状態だとかなり奥深い精神世界に連れてかれているはずだ。……その精神体に直接呼びかけるしか、助ける手立てはない」

 ロカセナが怪我をしている左脇腹を軽く握りしめる。やがて意を決したかのように、茶色の瞳で真正面からフリートを見据えた。

「僕が入口を創るから、お前がリディスちゃんを助けに行ってくれないか? 彼女をこちら側に戻せば、樹の状況も変わる場合もある」

「入口ってどうやって創るんだ?」

 くすりと笑われ、黒色の魔宝珠を取り出された。フリートは目を見張る。

「人の脳に負の感情を送り続けた僕だ。それを少し応用すれば、お前をリディスちゃんの意識に送り込むこともできるだろう」

「だがその召喚は著しく体力を奪うから、スキールニルからやめろって言われたじゃねえか! 俺はお前を姫の元に連れて帰る使命が……」


「リディスちゃんの未来を護ることが、フリートが最も果たさなければならない使命だろう!」


 ロカセナは立ち上がると、ゆったりとした足取りで樹に沿って歩き始めた。その後をフリートはついて行く。

「フリート、万が一あのモンスターが目覚めてしまっても、僕が体を張って全力で止めるやるから安心して行ってこい」

「お前……」

「同情なんてするな。加護を受けていない者の終わりなんて、この世界ではあっけないらしいよ」

 儚い表情でそう言い捨てる。まるで彼は終わりの場所を求めているかのように見えた。

 ドラシル半島に戻れたとしても、今後彼が辿る道は明るいものではないかもしれない。

 大事業を為し遂げている間に命を落とした方が、彼を後々語り続ける内容としてはいいのかもしれない。

 フリートは歩調を遅めながら自問自答する。

 当事者である、ロカセナが望んでいることをするべきなのか。

 リディスやミディスラシールといった、他の者たちが望んでいることをするべきなのか。

 考えれば考えるほど、わからなくなっていく。

 ロカセナは距離がついたフリートを静かに振り返って見てくる。


 目的のために、自分の生き方を変えざるを得なくなった青年。

 二年以上フリートの隣にいた、見慣れた顔でもある青年。


 そんな彼に対して、フリート自身は何を望むのか――改めて考え直すと、それは難しく考える内容ではなかった。

 胸元から茶色の魔宝珠の欠片を取り出す。そしてロカセナに歩み寄ると、彼の手に押しつけた。一瞬静電気のようなものが発したが、その後は違和感なく相手の手の中に収まる。

 押し付けられた青年は目を丸くしていたが、欠片を見ると、すぐさま返そうとしてきた。

「僕にこれはいらない。フリートが持っているべきものだろう!」

「お前が持てたのなら持っていろ。少しだが精霊の加護とやらは得られるんじゃないのか? そしたら多少体への負担が減るだろう……」

「アスガルム領民の血を引いているから、欠片程度なら反発はない。だけど僕が持っていたら、そっちの加護が無くなるだろう! お前はこれから危険な場所に行くんだ、少しでも護られていた方が……」

「お前を死なせたくないから、これを渡す。俺は自力でどうにかするさ。幸いお前より怪我の箇所は少ないし、体力も残っているからな」

 呆然としているロカセナを差し置いて、今度はフリートが先に歩き始める。本心を素直に述べたためか、若干気恥ずかしいが、清々しくもあった。

 前を進んでいると、後ろから言葉が投げつけられる。

「待て、フリート! お前の身に何かあったら、僕こそ姫様たちに顔向けができない。そしたら僕は……」

「だからさ、どうしてする前から無理だって言うんだ?」

 ロカセナが言葉を飲み込んだ気配を感じる。フリートは頭をかきながら、振り返った。


「絶望からは何も生まれない。俺の願いは、魔宝樹と共に三人で緑豊かなあの大地に戻ることなんだよ」


 その時、本当に僅かだがフリートとロカセナの髪が揺れた。風の精霊シルフの加護がなく無風だったはずなのに、風が吹いたのだ。

 不思議に思いながら吹いた先に視線を向けると、魔宝樹と横たわっているリディスの姿があった。瀕死で意識がないにも関わらず、彼女らは風を起こしたのだろうか。

 ロカセナは信じられないという表情で歩いてくる。フリートはリディスに駆け寄りたい思いをぐっと堪えて、ラグナレクの様子を注視した。

 殺気は漏れ出ているが、半島にいた時よりも抑えられている。まだ封印の効力は続いているようだ。

 ロカセナは土の魔宝珠の欠片を渋々ポケットに入れてから、フリートを追い抜いて先導する。しばらく進み、やがて立ち止まると、彼はサーベルを召喚した。その剣を地面に向けてやや斜め前に突き出す。視線を送られたフリートは素早く移動を開始した。

 腰を屈めてリディスの傍に直行する。ラグナレクからの殺気は突き刺さるが、体調に影響を及ぼす程度のものではない。滑り込むように近づいて、しゃがみ込む。彼女の胸が僅かに上下しているのを見て、安堵の息を吐いた。

 生きていることを確認したフリートは、すぐにラグナレクや魔宝樹から距離をとることを試みる。一瞬殺気が強まった気がしたが、視界の範囲内では相手側の様子に変化はない。

 微動だにしないリディスを肩に担ぎ上げる。それを一瞥したロカセナと共に、一気に駆けだした。

 枝が微かに揺れた。緊張が高まっていく。空気が張りつめてくる。

 ラグナレクの様子がぎりぎり見られる位置まで離れると、その場にリディスを仰向けにして寝かせた。軽く声をかけたり、頬を叩いたが、目覚める気配はない。全身傷だらけの娘を眺めて、フリートは銀髪の青年を見た。

「ロカセナ、道を作ってくれ。もしあいつの封印が解けた場合には、リディスを抱えて逃げてほしい」

 背中越しであからさまに溜息を吐かれた。剣の召喚を解いたロカセナが肩をすくめて見下ろしている。

「フリートもさ、いい加減自己犠牲はやめた方がいいと思うよ。リディスちゃんが悲しむから……」

「……わかったよ。あとは頼んだ」

「まったく……暴走気味な相棒を持つと、本当に面倒だね」

 ロカセナは腰を下ろして、リディスの頭を左手で軽く撫でる。そしてフリートに向けて右手を差し出した。

「リディスちゃんの意識の中に、お前の意識を無理矢理入れる。我を忘れずに、ちゃんと戻ってこい」

「ああ」

 右手を握られると、リディスの頭に乗せられた。指先から熱が帯び始める。体が急激に重くなり、瞼が強制的に閉じられていく。頭の中は不快な思いでいっぱいになった。


「光の道を導く青年よ、鍵を取り戻してこい」


 ロカセナの呟きを聞くと、完全に意識を失った。


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