真実の断片(3)
* * *
その日、少年はいつもと同じように過ごしていた。
皆で過ごすささやかな幸せが、当たり前のように続くと思いながら。
だが、日常や幸せは唐突に終わりを迎える――。
当時六歳の少年は、母親や精悍な顔つきになり始めている兄と食卓を共にしていた。食事の内容は他の家と比べて質素なものであったが、三人で食べるのが少年にとっては何よりも楽しみであった。
そんな中、突然ドアが叩かれた。訝しげに思った母親はドアを開けると、村に住む中年の男性が血相を変えて彼女に話しかけてきた。
二人は話をし始めるなり、徐々に眉をひそめていく。内容はわからないが、あまりいいことではないということが雰囲気から察することができた。兄も同じように眉をひそめている。
詳しい話の内容が知りたく、思わず少年は母親の元に行こうとしたが、後ろから兄によって止められた。
「どうしてとめるの?」
「大人には大人の事情があるんだよ」
そう諭していると、母親が兄弟の傍に近づいてきた。美しい銀色の髪をした、物腰が柔らかな女性だ。
「二人とも、すぐにこの家から出ますよ。準備をしなさい」
「おかあさん、どうして?」
母親はしゃがみ込んで、少年の頭を優しく撫でた。
「悪い人たちが来るって連絡があったの。その人たちは私や貴方たちを捕まえようとしてくる。ここで逃げなければ、私たちは皆、離ればなれになってしまう」
「そんなのいやだ!」
「お母さんも同じよ。だからいい子だから、すぐに自分の大切なものだけを持ってきなさい」
母親がそういうと、少年は慌てて自室に戻る。兄は彼の背中を追っていた母親に向かって口を開いた。
「……バレたの? この場所が」
「ええ。村を外から守っていた貴族が裏切って、情報を流したそうよ。お金欲しさでしょうね。私たちの体に流れている血と能力は、喉から手が出るくらい欲しい存在と言われているから……」
「捕まれば――」
「奴隷のように一生こき使われるか、力を恐れられて殺されるかもしれない」
母親は沈痛な面もちで兄に言葉を漏らす。だが、彼は既に悟っていたようで、驚きもせず、目を伏せただけだった。彼女は兄の肩に両手を乗せ、微笑みながら見つめる。
「――いいこと、何としてでも貴方たちだけは逃げきりなさい。樹がこの世界から消えて三十年、段々と綻びが出てきている。おそらく今回もそれが要因の一つとなっている。それを止められるのは貴方たちだけなのよ」
その内容から兄は母親が何を行おうとしているのか瞬時に気づく。口元を震わせていたが、ぎゅっと固く閉じた。母はそんな兄を優しく抱きしめた。
「いい子ね、立派なお兄さんになるわ。お母さんは貴方を育てられて誇りに思う」
「……どうして綻びのせいで僕たちが……! 樹が消えたのは僕たちのせいじゃない!」
「貴方の言いたいことはわかる。でもね、多くの人が気づかないだけで、みんな理不尽な状況を突きつけられているのよ。在るべき処になければならないものが、今はない。循環は途切れ、すべてが狂い始めている」
「そうだよ、早く樹を戻そうよ!」
焦る兄を宥めるかのように母親は頭を撫でた。
「そうね、早急に樹を取り戻す必要がある。ただ、今、扉を開けば、おそらく樹がこの大地に降り立つ前に、扉の向こう側にいる何かによって、大地が墜ちる可能性がある。封印した方たちはそれを危惧しているのよ」
兄から離れ、母親は掌にやっと乗るくらいの魔宝珠と、手で簡単に握りしめられる小さな宝珠を持たせた。
「――けれど時が来て、扉を開けるふさわしい鍵が現れれば、その可能性は格段に減る。今は耐えるしかないのよ……。これらは貴方の魔宝珠とお守り。こっちの魔宝珠には予め私の想いを入れておいたわ、十八歳以降になったら召喚ができるようにと。もう一つの小さな宝珠は、世界が変わる瞬間をきっと教えてくれるものよ」
兄は小さな袋にそれらを入れ、ポケットに入れ込んだ。噛みしめて、溢れ出る苛立ちを抑え込む。
ほどなくして、少年が階段をかけ降りてきた。母親は柔和な笑みで彼を出迎える。そして兄と同様に少年のための大きな魔宝珠と小さな宝珠を渡した。
「これはなに?」
「あなたのための魔宝珠とお守りよ。絶対に無くさないでね」
「うん!」
少年は返事をしながら、元気に首を縦に振った。
そして兄や母が簡単に支度を済ませ、三人で裏口から家を出ようとした矢先、玄関口のドアが荒々しく叩かれた。母親の顔からは血の気が引きつつも、鋭い目で玄関のドアを見据えている。
「……二人は先に行きなさい」
「おかあさんは?」
「――魔宝樹の加護が、いつまでも貴方たちのもとにありますように」
母親は玄関に向かって一人で歩いていった。ついていこうとする少年を兄は止め、二人で音をたてないよう裏口に向かう。
玄関口のドアが開かれると、母親と見知らぬ男の声が聞こえてきた。次第に声が大きくなり、やがては口論へと発展していく。
「いい加減にお引き取りください! 私たちが何をしたというのですか。どうして貴方たちに従わなければならないのですか!」
「だから言っているだろ! この村を納めていた貴族が、俺たちにあとは任せると言ったんだよ。――お前たちの力さえあれば、ミスガルム王国も陥落できる。つまり俺たちが大陸で一番力を持つことになるんだ!」
母親たちのやり取りが気になる少年の手を強く引いて、兄は裏口のドアを押した。しかし運悪く軋んだ音がしてしまった。
「おい、お前ら、そこで何をしているんだ?」
荒々しい男の声が、この家から逃げ出そうとしている少年たちに向けられる。兄はその言葉に答えず、意を決してドアを開け放ち、家から飛び出た。外に出ると、至る所に武装した男たちが立っていた。
少年や兄の姿を確認した中年の男性が、にたにたしながら二人に寄ってくる。
「出てきてくれたか。家探しする手間が省けたな」
「おじさんたち、だれ?」
少年が質問をすると、彼は声を出して笑い始めた。
「はははは! おめでたい
「逃げなさい、二人とも!」
悲痛な声を発する母親が家から飛び出てくる。兄は少年の手を取り、一目散に駆け出した。
少年たちに近づいていた男たちも全力で二人を追いかけだす。すると突然男たちの進行方向を妨げるかのように、火柱が立った。
「逃げて、二人とも!」
「この女! いい気になるなよ!」
剣を抜いた男性は母親の元に歩み寄っていく。他の男たちによって両手を後ろ手に回されて拘束された母親は、鋭い視線で男を睨みつけた。
「
二人の子供を追いかけていた男たちに、風の刃が容赦なく刺さる。鮮血が舞い、少年の頬に飛び散った。
「道を開けて――」
「黙れ!」
少年はその声に反応して思わず振り返る。男は握っていた剣を母親に向けて、振り下ろした。
次の瞬間、鮮やかな赤色が――舞った。
「お、おかあさん!?」
立ち止まりそうになる少年に兄は一喝した。
「振り返るな、行くぞ!」
兄は足がもつれそうになった少年を引っ張って、森の中に入っていく。後ろから男たちが探しに来る声を聞きながら、さらに奥深くに潜っていった。
「ねえ、おにいちゃん。いったいどこにいくの?」
状況が呑み込めずに、地面の上を走っていた少年は、一緒に逃げる兄の顔を見上げた。彼の表情は無表情だったが、弟の言葉によりやや表情を取り戻す。
「遠い場所だよ。ここから遠く離れた地に――」
「むらのみんなも、そこにいるの?」
少年が何気なく言うと、兄の顔は険しくなった。生い茂った森の中で、表情など見えるわけないのだが、その時は確かにそう見えたのだ。
少年はびくりとして立ち止まろうとしたが、兄の鋭い視線はそれを許してはくれなかった。
「……とにかく今は進むぞ」
それは少年だけでなく、自分自身にも言い聞かせているような言葉であった。
黙々と進み、開けた場所に出ると、流れが激しい川が目の前に広がった。兄は歩みを遅め、川に近づく。
「昨日降った大雨の影響か……。これは予定外だな。ここを越えないと、あれから振り切れる自信はない」
「ど、どうするの?」
追っ手の声が大きくなってくる。本来ならばこの川を越えて、森の奥に逃げるつもりだったらしい。
だが、この流れでは、川を渡りきるのは難しい。踏み外せば確実に下流へ流される。運が良ければ助かるかもしれないが、命を落とす方が確率的に高いだろう。
「おにいちゃん……」
呼ばれた兄はきりっとした表情を少年に向けた。
「行くぞ。僕たちには樹の加護があるから、大丈夫だ」
兄は覚悟を決めて川の中に踏み入れた。少年は兄の手をしっかり握りしめる。
流れが速い。その場で立ち止まっているのも難しい。
もう一歩進んだ瞬間、足を滑らせ、川の中に飲み込まれた。思った以上に激しい川の流れに、二人は呼吸がまともにできなかった。それでも二人はお互いに抱きしめ合って、必死に離れないようにした。
このまま乗り切れるかと思ったが、突如目の前にあったはずの川がなくなっているのに気付く。
そこは滝だった。まるで二人の人生の道もないかのような風景に、言葉すら出なかった。
やがて二人は川から投げ出され――それからしばらく後の少年の記憶はない。
* * *
「ロカセナ、疲れている?」
赤髪の少年が、木にもたれ掛かっている銀髪の青年の顔を覗きこんでくる。彼ははっとして体を持ち上げた。
「そうかもしれない。久々に動いたから、ちょっと疲れているようだ」
「珍しいね。たいしたことはしていないと思うけど……」
首を傾げつつ、ニルーフは自分が座っていた木の根本に戻る。今はロカセナ、ニルーフ、そしてゼオドアの三人で焚き火にあたっていた。やるべきことがひと段落着いたので、合流したのだ。
「隙だらけでしたよ。貴方らしくないですね」
ゼオドアが皮肉も込めた言葉を漏らす。ロカセナは深々と息を吐いた。
「申し訳ありません。少し昔のことを思い出しており……」
「本当に珍しいことですね。過去のことなど貴方はほとんど口にしないのに。それは楽しいことですか?」
「まさか」
鼻で笑いながら返答する。あれはもっとも思い出したくない過去だった。本当なら消し去りたいが、人の記憶というのはそう簡単に都合よく消すことはできない。
ゼオドアはそれ以上追求しようとはせず、違う話題を差し出してくる。
「そういえば鍵と光の青年たちが城に戻ったらしいですよ」
「ええ!? いつのまに戻ったの!? 城下町にモンスターの卵を落としておいたけど、誰かが精霊召喚で還した様子はなかったのに……」
「ニルーフ、全員が全員、精霊召喚で還すわけではありませんよ。騎士団の方たちもいるのですから」
ゼオドアは諭すように言うと、ニルーフはああっと声を漏らした。
「そうだった。鍵はもともと還術士だったし、光も武器だけで還せるもんね。けどさ、どうやって入ったの? 金髪のお姉さんが城下町に現れたら、もう少し町中も騒ぐんじゃない?」
「変装したようですよ。普通なら誰にも気づかれないほど、巧妙に」
「……てか、どうしてそんなこと知っているのさ、ゼオドアは。まさか盗聴とか?」
「さあ、どうしてでしょうか」
ほっほっほっと笑いながらゼオドアは聞き流す。
ロカセナはリディスたちがミディスラシールの元に戻ったと聞いても、悔しさなどの感情は沸き上がってこなかった。むしろ哀れみすら感じていた。
「ロカセナは関心がないようですね」
「僕たちが今ここで捕まえなくても、扉を閉めるとなれば、あの地に来なければならない。彼女のことだ、最低でも扉は閉めに来るはずだ。そこで会って更なる真実を突き付けて、選ばせればいい。何もせず理不尽な現実を受け入れていくのか、扉を開けて本来あるべき未来を切り開くか――。こちらが動いて、わざわざ気にかける必要はない」
「随分とお優しいお言葉を言うようになりましたね。どうかしましたか?」
「別に。どう足掻いても、彼女たちには絶望の道しか残されていないだろう」
ロカセナはぽつりと呟き、ポケットから袋を取り、そこから丸みを帯びた小さなものを出した。
色を失った小粒な宝珠がそこにはあった。
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