愛されし儚き子(2)
* * *
そこにその人がいるのが当たり前だと思っていた。
その人が母親だと本気で思っている時期さえもあった。
しかし、彼女はただの使用人であり、母親は物心が付く前にモンスターに殺されたと言われた。その事実を聞いた時はさすがに衝撃的過ぎて、しばらく塞ぎ込んでいたものだ。
そんな時に優しく抱きしめてくれたのが、母親代わりとしてずっと接してくれていた使用人の女性だった。泣き続ける少女をいつまでも抱きしめてくれたのだ。
厳しい父親を持っている一方、彼女は優しくも諭しながら少女を前に導いてくれた。
血は繋がっていなくても、母だと今でも思っている。その関係がいつまでも続くと思っていた。
だが、青年たちと出会い、かつて泣きじゃくっていた少女は旅に出た。
そしてその出会いは思わぬ方向へと転がってしまう――。
* * *
町を出る前よりも一段と凛々しく、美しくなった金色の髪の娘は、その扉を激しく叩いていた。
入り口には護衛として守衛の詰め所から派遣された男性が二人立っていたが、この家の主の娘の行動を止めようにも止められなかった。あまりにも必死に叩いている彼女に、声をかけられなかったのだ。
「お父様、お父様! 私です、リディスです!」
リディスは目の前にある扉を何度も叩いていたため、鍵がかちゃりと解かれる音が聞こえなかった。
手を振り上げようとした時に、大きな手によって止められる。リディスは鋭い視線を止めた相手に突きつける。彼は口を一文字にして首を横に振っていた。
「もうやめろ。扉が開くぞ」
「えっ……?」
その言葉通り、扉は音をたてて開かれる。
かつて毎日顔を合わせていた、眼鏡をかけ、白髪混じりの茶色の髪の男性が中から現れる。リディスの顔を見ると安堵の息を吐いた。
「リディス、久々だな。その様子だと記憶はもど――」
「お父様、マデナは、マデナは!?」
育ての父親であるオルテガは歯を噛みしめて、目を伏せるだけだった。
リディスはよろけそうになったが、すぐ横にいたフリートによって支えられる。
オルテガの表情、仕草はすべてを物語っていた。
久々に晴れた空から見えた夕陽は、そこに広がっている墓石を赤く染めていた。
数ヶ月前に訪れた時は整然と墓石は並んでいたが、今はどことなく雑然としている。死者が唐突に増えたため、きちんと並べる余裕がなくなったという。
その一角でリディスはフリートに支えられながら、真新しい墓石を眺めていた。
そこに書いてある名前は――‟マデナ・イルレリカ”。
ユングリガ家の使用人だった女性だ。
リディスたちの少し後ろにいたオルテガは、さらに後ろにいる護衛に見守られながら重い口を開いた。
「あの扉が開いてから、さらにモンスターの数は増えたが、この町はより強固な結界を張ることで、なんとかやり過ごしていた。しかし、一つの結宝珠だけで結界を長時間維持することはできない。そのため結界を張りながら、同時期に効力を失った結宝珠に再び力を蓄えていた。そして時機がきたら、結宝珠を交換する――という行為を幾度なくおこなった」
オルテガの言葉を聞きつつ、リディスはじっと墓石を見つめる。メリッグたちには屋敷の前で待機してもらっているため、オルテガの話を聞いているのはリディスとフリートだけだった。
「だが、リディスも知っているとおり、宝珠の交換の際には一瞬だが結界の効力を失う。いくつもの結宝珠を町の周りに囲んで結界を被らせることで、一個取り外した際にも結界が完全に消えることがないようしていたが、たまたま隣にあった結宝珠が壊れた。その隙にモンスターは侵入し、マデナや町の人々を――」
「――事情はわかりました。今は大丈夫なんですか、結界は」
リディスは視線を変えずにオルテガに尋ねる。彼は淡々と答えた。
「大丈夫だ。その事件以降は結界を解除する際に、周囲に何人もの還術士を置いてから行っている。まあ、あれ以来、結宝珠自体が壊れることはなかったがな……」
「いつ壊れたんですか?」
「二十日ほど前だ」
「二十日前――」
記憶を遡っていくと、ある一つの出来事を思い出す。それとシュリッセル町で起こったことを関連付けると、涙が零れそうになった。奥歯を噛みしめて、必死に抑えこもうとする。
だが、リディスの必死の抵抗をフリートはあっさりと払いのけた。肩にそっと大きな手を乗せてくる。
「……無理するな」
「無理なんかしていない。だって、私のせいでマデナは――!」
鍵であるリディスの記憶という供物を捧げたことで、この地からモンスターが生息している地へと続く扉が半開きになり、モンスターが大量に雪崩れ込んできてしまった。
その間のモンスターの強襲は今とは比べものにならないほど恐ろしかったと、道中で立ち寄った村で聞いている。ちょうど二十日前はこの期間にあたった。
しかし、リディスが記憶を取り戻したことで、扉は閉まりかけた状態になった。その僅かな隙間からはなかなか出られないのか、新たなモンスターはあまりでてきていない。
つまり、マデナが殺された時は、最悪の状況の時だったということだ。
リディスが記憶を失っていたことで、多大な数のモンスターを流出させてしまった。そのせいで、どれほど多くの人が犠牲になったのか――。
拳をきつく握りしめる。爪が皮膚に食い込んでいるが、リディスはやめようとしなかった。
その時、突然右腕を掴まれ、引っ張られる。そして視界は墓石ではなく大きな胸元へと変わった。フリートに体ごと引き寄せられたのである。
「な、何をするの! 離して!」
リディスが激しく腕を払うと、フリートはすぐに離してくれた。対面した黒髪の騎士を下から睨み付ける。彼はそれを受け流し、哀愁を漂わせる表情を浮かべていた。
「……いい加減に手を開け。真っ赤だぞ。そんなに自分の感情を押し殺してどうするんだ」
「何よ、フリートにはわからないわよ! 私のせいで――」
「俺の母親もモンスターに殺された。俺をかばったせいでな」
震えるフリートの声を聞いて、リディスは目を大きく見開いた。
握りしめていた手をゆっくり開いていく。爪が食い込んだ部分からは、血が浮き上がっていた。
「扉が開いたのはお前のせいじゃない。結果としてモンスターが流出したのも、お前のせいじゃない。――あいつらのせいだろう」
苦々しい思いでフリートはある人物の名を出さずに言い捨てる。
「あいつのおかげで記憶を失ったが、お前は自力で記憶を取り戻した。そうしたことで被害を抑えることができているんだ。お前だって相当頑張っているのに、どうして自分自身を責め立てる? ――お前が鍵であることに、何も罪はない」
意識的に抑え込んでいた考えが、少しずつ思い出されてくる。
リディスは記憶が戻った後、メリッグやルーズニルを通じて、ある事実を告げられていた。
鍵を用いることで扉は開かれ、その結果モンスターが大陸中に溢れているということを。
それを聞いた時から胸が苦しくなる日が多々あった。
自分がロカセナをもっと警戒していれば、もっと魔宝樹に関して知識があれば、そして鍵として自覚があれば、こんなことにならなかったのではないか――と。
自分の無知や軽率な行動に恥を抱き、自分自身を心の中で恨み続けていた。だがそれを表面化させてしまって、雰囲気を乱してはいけないと思い、周りには笑顔で振る舞うようにしていた。
だが、マデナの死を知り、もう我慢できなくなっていた。心の中では悔しさや怒り、悲しさで溢れ、もはや爆発寸前である。そんな中でフリートにあの言葉を出されたら、感情が崩壊するのは時間の問題だった。
「自分を押し殺して気丈に振る舞うな。笑顔を振りまくな。お前も感情ある人間だろう」
「……言わないで、そんな優しいこと言わないで。弱みを見せたら、そこを突かれる……」
強がる言葉を発しつつも、目から涙がこぼれ始めていた。自分の異変に気づき顔を俯かせる。
人に涙を見せたのはいつぶりだろうか。すぐに涙を拭わなくては。
「泣いてすっきりした方がいいんじゃないか? 誰も見ねえよ、お前の泣き顔なんか。どうせ可愛くないだろうから」
「うるさい……。何がしたいのよ、フリートは。慰めたいの、
「そんな顔じゃオルテガさんに顔を見せられねえぞ。とっとと吐き出せ、馬鹿」
「何なのよ、本当に……。……フリートの馬鹿、お節介、頭固すぎ、無茶しすぎ……。……お願いだから、私より先に死なないでよ……」
それだけ言い切ると、リディスは両手で口元を抑え、声を押し殺しながら涙を流し続けた。見かねたフリートは右手で軽く肩に触れて引き寄せてくる。腕によって周囲の視界が遮られ、彼の胸の中に納まる形となった。
おそらく酷い顔になっているが、彼の腕のおかげで誰にも見られていない。フリートも視線を下げずに落ちていく夕陽を真っ直ぐ見ているため、彼にも見られることはなかった。フリートの陰で溜めていた涙を、我慢していた想い共に流していく。
辛く厳しい現実を少しずつ認めなければならない。逃げるのではなく、前に進むために――。
その後、陽が落ちきる前に、二人は墓前に花を添えて合掌した。そしてリディスは目元を軽く拭ってから、その場を立ち上がり、ゆっくりと我が家への帰路についた。
辺りが暗くなる中でフリートとリディス、そしてオルテガとその護衛たちは屋敷に向かっていた。リディスが泣くのをやめた後の表情は、少しだがすっきりとしていた。
彼女を引き寄せるなど、あまりに唐突な行動をしてしまったが、どうやら功を奏したようである。ただ抱き寄せている間、微笑んでいるオルテガと視線があった時はとても気まずかった。
あの銀髪の優男ならもっと気の利いた行動をしたり、言葉の一つでも発するだろうが、フリートにとってはこれが精一杯である。
リディスは比較的穏やかな表情をしているが、おそらく彼女の心中はしばらく後悔の念が占めるだろうとフリートは思っていた。
フリートも母を失ってから十年以上経過しているが、今もなお当時のことを思い出すと、悔しさが沸々と浮き上がってくる。さらに強くなり、多くの人を助けなければ、想いは薄れないかもしれない。
屋敷に着くと、メリッグ、トル、ルーズニルが詰め所の者と話し込んでいた。オルテガたちが戻ってきたのを見ると、話を切り上げて出迎えてくれる。
メリッグはリディスの顔をまじまじと見たが、すぐにフリートへ視線を移し、自分だけに聞こえるくらいに声量を抑えて口を開いた。
「……落ち着いたようね。何かしたのかしら」
「俺も身内が殺されたことを話しただけだ」
「あら、それだけ?」
「何が言いたい」
「別にいいわ。――しばらくは特に気をつけて見ていなさいよ」
そう言い残して、メリッグはリディスに話しかけにいった。他愛(たわい)もない内容のようだが、考え込んでいたリディスにはいい息抜きになっているようだ。
ルーズニルはオルテガと話しており、町の詳細な現状などを聞くために、屋敷の中に入れてもらえるよう頼んでいる。オルテガは早々に承諾をし、客人としてフリートたちを屋敷の中に迎え入れてくれた。
中にある家具の配置は以前と変わらなかったが、全体的に散らかっているように見えた。食卓の脇にある机には多数の書類が積み重ねられている。
「……お父様、夕飯はどうしますか? ……といいますか、きちんと食事はとっていますか?」
リディスは水に付け置きされた皿を眺めながら呟く。オルテガは罰が悪そうな顔をした。
「夕食は町民から頂いたものを食べている。朝や昼に関しては適当に済ませている」
「お忙しいのはわかりますが、体は労ってください。……私たちも久々にきちんとした食事をとりたいので、少し台所を借りますね。時間も遅いので簡単な野菜スープになってしまいますが、よろしいですか?」
リディスはオルテガに向かって静かに微笑む。それを見た彼は表情を緩ませた。
「ありがとう。是非頂こう」
そしてリディスはまず台所を片づけ始めた。
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