不幸

 ティムがフィリルと共にこの村に来た時から、アーシェラは彼が並々ならぬ不幸な過去を背負っていることは察していた。その経緯はロジオンですら知らないらしく、この村に来てからもそのことを一言も話さなかった。

 アーシェラはティムの過去がどうであれ、この村で共に働いてくれるのであれば、それだけで大歓迎だったが…………そろそろ、一歩踏み込んでみる時期ではないかとも考えていた。


「ティム、この際だから一つ言っておくことがある」

「な……なに? 村長さん?」

「楽しめるときは、素直に楽しんでいいんだ。君が楽しんでるのを見て不愉快になる人はいないし、逆にしょんぼりしたり我慢したりしていると、心配になってしまうからね」

「それはわかってます、けど俺…………楽しむとか、笑うとか、そういうのがわからなくて」

「ヤッハッハ、それは困ったネ! 私なんて年中笑ってるようなものなのに!」


 何しろ今のままだと、ティムが心の中では楽しんでいるのか、本当に嫌がっているのかがとても分かりにくく、周りが過剰に配慮してしまうのである。そして、それで一番困るのはほかならぬティム自身なのだ。

 ティムのような年頃の男子は、時々大人に対して反抗的になったり、露悪的になったりするのだが、彼の場合はそのような生易しい問題ではない。


「前にもちょっと話したけれど、ティムの昔のことを無理に話す必要はないよ。僕も含めて、この村にいる人たちは色々な理由で山向こうにいられなくなった人だからね」

「おうよ、俺だって故郷にいたら役人に捕まっちまう身だ。なにしろ、人を三人ばかし殺してるからな」

「ええっ!!?」

「ディーターさん……それは僕も初耳なんだけど」

「ったりめぇよ、そこらの荒くれならともかく、パン屋の俺が人を殺したところでなんの名誉にもならんからな」


 ここで、パン屋のディーターがさらっととんでもない過去を語り、ティムのみならず出席者全員が思わず唖然といてしまった。


「あ、流石にドン引きだったか?」

「いやまぁ……ディーターさんの場合、出会ったときから威勢のいい人だったから、てっきりディーターさんが何か問題を起こしたわけじゃないんだろうなと思ってたんだけど…………ああでも、僕はディーターさんが無差別に殺める人じゃないってことはわかってます!」

「ヤッハッハ、人殺しだったらうちのゆりしーのほうがよっぽどだし、今更気にしないよ!」

「警備も手伝えると知ったときから、タダモンじゃねぇとは俺も思ってたが……」


 村の人々のためにパンを焼くディーターだが、実はかつて故郷の町にいたころ、もめ事を起こした末に人を殺してしまったことがあったという。


「本当なら俺も親父の後を継いであの町でパン屋をやるつもりだったんだがよぅ、なめし皮職人だった俺の親友が、恋人を地元有力者の息子に奪われて、その恋人は玩ばれた挙句その有力者の息子に殺されちまったんだ。有力者の身内だから、もちろんお咎めはなしってことになって、親友あいつは泣き寝入り…………だから俺は、あのボンクラがいけしゃあしゃあと店に来た時、怒りに任せてあいつとその取り巻きの頭をのさ」

「そんなことがあったのですね。ディーターさんはやっぱり勇敢です…………が、パン屋さんが食べ物を粗末にするのは、少し感心しないのですが」

「村長が気にするのはそこ!?」

「そりゃそうでしょ。リーズさんのスープを台無しにした人がどんな目にあったか、忘れたわけじゃないよね! ヤッハッハッハ!」


 事情が事情とはいえ、殺人――――それも有力者の跡継ぎを殺したというのに、それを悔やむことも誇ることもなく…………過去にあった単なる事故の一つしかとらえていないディーター。

 そして周囲の大人も、その衝撃的な事実に驚きはすれども非難する声はほとんどなかった。アーシェラの苦言も、どこかずれている。


「なんか…………この村に来るまでは、僕は世界で一番不幸な存在なのかと思ってたけど、こうして聞いてると、僕なんか大したことないっていうか、むしろレスカ姉さんに助けてもらった分、恵まれてるんだなって思うよ」

「…………フリッツがそう思ってたのも無理はないけど、過去のことに折り合いをつけるのは大切なことだと思う。フリッツは今、毎日充実しているよね」

「はいっ! 僕は今の生活が楽しくて、むしろ父さんが僕を捨ててくれてよかったって思うくらい!」


 父親から廃嫡され、適当に事故で殺されるはずだったフリッツも、今ではこうしてタフに生きている。

 決して「大したことはない」とは言えないつらい過去だが、フリッツはそれを忘れたわけでも、引きずるわけでもなく、「克服した」と感じている。


(不幸なのは………いや、不幸のは俺だけじゃない……ってことか)


 過去のトンデモ話を、不幸自慢にも武勇伝にもせずに淡々と語る村人たちを見て、ティムは心が一気に軽くなったように感じた。

 特に、この村に来てからずっと自分の指導をしてくれていたディーターが、意外過ぎる過去を持っていることに驚嘆し、それを不幸とも思わず力強く語る姿に感銘を覚えた。


「村長……」

「なんだい、ティム?」


 自分の中で、何かが変わろうとしている――――未知の感覚がティムにはなぜか怖く感じて、アーシェラにすがるような視線を向ける。


「俺も……村長たちのようになれるのか? どんなつらいことがあっても、それを忘れて、笑うことができるのか?」

「それは少し違うね。僕たちは痛みを忘れているわけじゃない、過去の上に自分があることを踏まえて、今を生きるのに全力を尽くしてるだけなんだ。だから、楽しむときは心の底から楽しみたいし、ティムにも楽しいと感じた時は素直に楽しんでほしい、ただそれだけだ」


 それに対してアーシェラは、安心させるように温かい笑顔でティムを諭した。

 なかなか難しいことを言うのだが、アーシェラが言うと難しいこともいつかきっとできると思わせてくれる何かがあった。


「で、ティム。聞いての通り、俺はパンで人を殺したことがあるわけだが、お前は俺のことを軽蔑するか?」

「いえ、師匠……むしろ見直しました」

「こんな話で見直されても困るんだがな…………もしかしたらおまえにも、気に入らない奴の一人や二人いたのかもしれんが、パンで人を殺す方法は教えられねぇぞ。パンの味で昇天させる方法なら、教えてやれないこともないがな!」


 妙なきっかけではあるが、アーシェラはティムの瞳に力強さが宿ったように思えた。

 とはいえ、ディーターのパン作りの腕は受け継いでも、その根底にある血の気の多さだけは、なるべく受け継いでほしくないなとも思ったという。

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