逆鱗 Ⅱ
表層世界で願いを抱き、至種としてこの世界に転生した命は世界を存続させるためになくてはならないものだ。
里人などこの世界に住む人間には至種だけは不可侵だと約定を交わしている。それを一方的に破られたとあれば黙ってはいられない。
少なくとも、下手人を逃がしてやる理由は微塵も存在しなかった。
ミコトは左袖を捲る。
「ゲリ、フレキ。聖刻(スティグマ)を二画消費。この大地とその周辺まで異物を探査して。一人も逃がしちゃダメ」
うぉーんと高らかに遠吠えが響き渡ると共に精査が開始される。
時間がかかるものではない。〈伝達〉で竜を呼び集めた時と同様、あっという間に終わった。
「ここで転移の技能を使って逃げた人間が三人」
「北方二十キロ。未確認の集落に向かう人間が二人」
転移の術式は使える者が希少だ。
しかも技量によって運べる質量が限られるので全員が行動を共にしない理由はわかる。要はただの戦力で駆り出されて置き去りになったのが四人いて、二人は早くに切り上げて逃げ出し、残りはここで欲をかいたのだろう。
話を聞いたベネッタは顎を揉む。
「無計画にするわけがない。犯行グループは事が露見することを想定した上か」
「そうかもしれません。けれどもし囮を使えばバレないと思ったのなら舐められたものです。絶対に追い込んで壊滅させます」
人にとっては空恐ろしいことを呟いているだろう。
けれど、自分の家族はむしろ幻想種で、この世界を存続させるためには彼らを守り続ける必要もある。こちらでは人間はただ間借りさせてもらっているだけの存在だ。人間の世界を捨ててここにいる以上、その摂理に文句を言う資格はない。
追撃役と卵を守る役。欲を言えばこの事態を里に連絡し、下手人の拷問と情報収集を要請する役の三つが必要だろうか。
ベネッタとグウィバーに協力してもらえば十分にできるだろうが、手は多い方が良いだろう。
「師匠! 師匠、どこかで聞いていませんか!?」
ミコトは声を張る。
この役目は御子が継ぐというだけで他に縛りはない。先代が死んでいなくとも必要さえあれば継承されるものだ。
ベネッタは一線から退いているが、先々代は補佐として竜の大地に残っている。
取り替え子として妖精に育てられながら数十年とお役目を担い続け、今は自身も妖精に変じたベテランである。今でもミコトがお役目で困れば彼に助言を求めるため、『師匠』と呼んでいるのだ。
不自然な風で草木がざわついたかと思うと、場に現れる影があった。
「ミコっちゃん。声が剣呑ですね。妖精を呼ぶ時はこう、甘ったるい飲み物とお菓子を用意してから愉快な宴を――」
「アルヴィン。空気、読まなきゃダメ」
ほろんほろんとハープを鳴らして歩み出してくる若い男の頭を女性が叩く。
ミコトと衣装が揃ったローブをまとった魔法使い、もしくは吟遊詩人とでも例えるのが適当だろう。
叩かれた勢いでこてんと首を傾けたまま「失敬、失敬」と零すところも含めて大いに胡散臭い雰囲気はあるが、彼こそ先々代のアルヴィンだ。
傍らの女性はその縁者――森の精と言われるスクーグスローのコーティだ。樹皮が頬を多少覆っている点などが人外らしい。
アルヴィンは引き締まらない表情ながらも周囲を眺めると、改めて視線を合わせてくる。
「なるほど。逆鱗に触れる人間がいましたか」
「……はい」
逆鱗。まさに言い得て妙だ。
別に竜の大地の竜に人が手を出したところで文句はない。
〈貴種〉であれば倒せるものならば倒してみろとでも言いたくなる存在であり、〈原種〉の竜であれば昼間同様、好きに狩ってもらえばいいのだ。
だが、至竜だけは話が違う。確かにこの土地における逆鱗とも言うべき存在だろう。
ハープを虚空に投げ消したアルヴィンは静かに問いかけてくる。
「ミコっちゃん。君は僕に何を求めますか?」
「〈妖精の耳〉で北方二十キロにある集落の情報を探ってください。あと、この卵の保護をお願いします。その後に先代のお薬も処方したいので、私の家で待っていてもらえますか?」
「表層世界のお菓子を頂いても?」
「……どうぞ」
今はそんなことどうでもいいとぶっきらぼうに返してしまった。
アルヴィンはそれを不快とも取っていないのか、ひたすらに穏やかな表情のままだ。
彼はごそごそとローブの振袖の中で何かを探ると顔を覗き込んでくる。
「糖分を取るといいでしょう。怒りは目を曇らせますよ、ミコっちゃん。君は怒るとより冷静になりますが、顧みるものが減るところもあるので」
言葉と共に口に押し込まれるのは完熟したベリーだ。
それをひと噛みふた噛みすると、目的ばかりを見て自分の視野が狭まっていたことにふと気づかされる。
もう少し早く喋ってくれと言いたくなるくらいゆったりとして甘ったるい声ではあるが、真面目な時には真面目なことを言う。
ベネッタが結界術の師匠であるなら、このアルヴィンは調合と付与の師匠である。ベリーに関しても、彼は何らかのまじないをかけていたのかもしれない。
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