♭068:亢進かーい(あるいは、立たねども/Shack & Yark)


「え? 押し入れるって、え?」


 何となくの、いやかなり確度の高そうなヤバげな空気を全・産毛で感じつつも、一応私はそう問うてみる。目の前の池田リアは、ああそうでした、とその美麗な顔を微笑ませると、トレンチコートの懐からとろりとした粘度のありそうな液体の入った小瓶を取り出し、テーブルに置くのだけれど。


「こちらをお使いください。『ロータニック=ショックアブソーバン』、縮めて『ロー=ショ・ン』と呼称している、まあ潤滑油みたいなものです」


 うん、まあシャバでもそう呼んではいるけどね。それよりもこの中指に嵌めた指サック状のものにその液体を塗ったくってお菊さんに挿入すると。何だろう、割と修羅場をくぐってきたと自負する私だが、この現実日常にほど近い場でそんな狼藉をするのは初めてだったことに気付き、少し戦慄する。


 相対する池田は先ほどまでの緊張や恐怖はどこへやら、すっかり平静を取り戻してこちらを睥睨しているけど。何だかんだで場慣れしているのかも知れない。それがいいのか悪いのかはわからんが。


「それでは始めましょうか……双方が中指を『セットポジション』に置いた時点で『着手OK』となります」


 池田は小瓶のフタを捻って開けると、躊躇なく、そのほっそりとした中指に嵌められた「器具」をたっぷり満たされていた液体に沈めていく。その整った顔に浮かんでいるのは、うーんやっぱモノホンだ。モノホンの何かだ。


「……」


 しかし気圧されてはならない。もはや得るものが何も残されていないと思われる私がどん底のこの勝負でも負けを喫してしまったら。


 ……もう立ち直れないかも知れないから。


 主任との諸々のことは、ダメが絡んでいたとはいえ、何か満たされていた。ずっと空気の抜けた風船のように萎んでいた心に、暖かい息吹のような空気を送り込まれていた気がしていた。


「……」


 主任とは今日で終わりだ。職場でも顔を合わせることは最小限にしよう。また、聡太と二人で生きていくだけじゃあないの。そう、だったら前を向いて胸張らなくちゃ。


「……」


 どんな表情になっているんだろう、自分では分からなかったけど、池田の顔がちょっとした驚きを呈したように見えた。たぶん吹っ切れたような、ニュートラルな表情をしてるのだろう。


 やってやんよ。お前を倒し、世間にも、世界にも立ち向かっていってやる。呆れてしまうほどの壮大感のある決意はしかし、私の心の中の風船をパツパツになるほどに膨らませていくのであった。


 私も右手中指を液体に浸してから、背筋を伸ばして背中側から右手をパンツの中まで侵入させていく。セットポジション、オーケー。


 <対局開始>


 スマホの画面が戦いの開始を告げる。


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