#030:帰還で候(あるいは、天上直結/ガッブレスュー)


―じょぉぉぉぉしゅうううううう…………


 声が聴こえた。舌足らずな、少女の声が。それはサジリア鳥の求愛の鳴き声にも似た、げにこちらの胸の琴線を震わせてくるような、甘く、そして軽やかに鳴る鈴のような声であった。


 召されてしまったのだろうか。そう言えば、そこはかとなく芳醇な花のような蜜のような、そのような芳香が、私の鼻から肺にかけて感じられる。天上の楽園。そこに私の魂は運ばれたと、そういうことなのだろうか。


 母上は、ここにおわしますでしょうか。必死で探そうと目を凝らすも、目の前は暗黒だ。はて、これは一体どういったことなのであろうか。


 聴覚、嗅覚、味覚、触覚は確かに天上のものと思われるばかりの、説明しようもないが快い感覚に包まれているというに、ただひとつ、視覚だけがままならぬ。


 いや待てよ。私のような者が天上へ昇れるはずは無い。さらばここは地の獄であろうか。その割には、身体に感じる諸々は私を苛むどころか、心地よく震わせてくる。何だ、このちぐはぐな感じは。


―ジョシュおねがいっ息をしてっ


「……」


 いや、「じょしゅ」は私の名だ。そして私の名をそのように呼ぶのは亡き母と……


―ジョシュぅっ!!


 ……モクしかおらぬ。


「!!」


 見開いた双眸に映ったのは、触れ合うばかりに近づいた、モクの濡れた顔であった。次の瞬間、突き上げて来た衝動と共に、私はそのあどけなき顔に思い切り生温かい水を吐きかけてしまう。しかしモクは顔を逸らすでもなく、笑顔なのか泣き顔なのか判別できぬ表情にて、私に顔を擦りつけてくるのであった。その全身も、濡れそぼっている。私を救うため、母なる大河に飛び込んでくれたのだろう。


「よかった……ジョシュ……」


 幼き頃に戻ったかのようなその物言いに、何とも気恥ずかしくなってしまい、だが身体はままならぬままであったため、されるがままに仰臥するばかりだ。目だけを動かして確認すると、大分下流へと流されたようである。先ほどまでの風景とは、木々のまばらさなどが異なっている気がするからであり……いや、そのようなことはどうでもいい。


「モクよ……貴殿が私を救ってくれたのか……」


 このような華奢な体で。このようないつ朽ち果てても構わぬ私ごときに手を差し伸べてくれたというのか。思えばモクはいつも爪弾きの私に自然に接してくれていた。まるで友のように。半分に割って、大きな欠片の方を私にくれた、あのポグモ飴の甘さとほろ苦さが、口中に広がっていくのを遠い記憶が甦るのと同時に感じた。


「……え、ええ。それよりも、ぶ、無事で何よりですわ、ジローネット様」


 しかし感謝を受けて当然のはずのモクは、何故か私から目を逸らし、顔を赤らめている。どうしたというのだ。私なぞを救ったことに、後悔の念でも湧いているのだろうか。だとしても、私には、それに報いる言葉を、態度を示さねばならない。


「心より、感謝を申し上げる、モク。いやモクレィ殿。貴殿の泳術、および迅速なる蘇生法のおかげと私は悟った。重ねて、感謝いたす。しかして、どのようにして私を死の淵より呼び戻されたのだ? ひとつそこのところを教えていただけると、ありがたいのであるが」


 単純なる質問だったと思うが、モクは耳まで赤らめて硬直するばかりだ。ぬう。私を救ったことは、やはり恥ずべき行いだったということか。それも当然。だが、溺れたる者を救う蘇生法、それだけでも聞いておいて損はないはず。


「モクレィ殿ぉぉぉォォっ、願わくば、我を救いし蘇生法の極意を、お教え願えぬだろうかぁぁぁァァっ、差し支えなければ、いま!! いま一度、御指南のほどをぉぉぉぉぉぉッ」


 高揚とわけのわからぬ興奮を持って、モクに迫る私だったが、その顔面に唐突なる衝撃が。


「……控えよ、ジローネット。モクはその極意を軽々に教えたりなぞせぬ」


 やや苛立ちを含んだ姫様の声。やはり、であるか。思ったよりも重いおみ足の靴裏と顔面が直結するという光栄に恵まれながらも、その衝撃にまたしても私の意識は持っていか


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