第2話 失われた諭吉
気心の知れた安心できる相手。そんな大切な人間と共に過ごす日常は、時には誰かを傷つけてでも守りたくなるくらいには素敵なものである。
しかし、世界は無常なのだ。そんな素敵なものに限って、それはそれは些細なことで崩壊の危機に面するもの。そして今回迎える危機の兆候は、いつも見ている隣人の、些細な”様子”の違いから露見する。
吹けば飛びそうなボロいアパートの中、浦田祐奈は不自然な手つきで谷村和夫に向かってマグカップを差し出していた。その額には冷や汗が浮かんでいる。
「な、……なーなーカズくん、コーヒー飲む? ほら、ド、ドリップやで?」
その奇行を見た和夫は心底嫌そうな顔をする。
「なんなんお前、あんま女にこんなこと言いたないけどよ、……顔、変やで」
「え? そんなことないって、あたし生まれつきこんな顔やん?」
祐奈は普段、外見のことをイジられるとひょうひょうとした態度で、自分がいかに『可愛い』かについてマシンガンのように反論する。そんな彼女が引きつったままの、不気味な笑顔を顔に張り付けたまま反論すらしないことに、和夫が強い違和感を覚えるのは当然であるといえよう。
「……いやー」
「え? なに? 普段はもっとかわいいって?」
祐奈は目を見開いて、更に顔面の不気味さに磨きをかけながら、自分のほっぺたを指でつっ突く。和夫はどこかから押し寄せる嫌な予感を強く感じながら、かすれた声で言う。
「……あー、まあ今よりは。でもあれやで、お前今の顔100点満点中2点くらいやで」
「えー、ホンマ? もっとがんばらなあかんなぁ……はは」
和夫は引きつったまま笑い続ける祐奈に、『いや、お前完全に怪しいで、バレバレやからはよしゃべれや』という意味を込めてグッと顔を近づける。
「……お前なんか隠してるやろ」
祐奈は睨みつけるような和夫の視線から逃れるように視線を逸らした後、棒読みで言う。
「え、えー、なんもないって! カズくんあたしのこと見すぎやってー、好きなん?」
もはや何かを隠していることは確実にバレてしまっているという事実にテンパっている祐奈にはせいいっぱいの抵抗である。
そんな祐奈の必死さを感じ取り、和夫は小さく嘆息する。
「……まあえーけどな、今月もなんとか家賃だけはイケたし、余裕かっつったらあれやけど、今日も屋根のある場所で寝られることに感謝をやな……」
「……っ」
”家賃”と聞いた瞬間祐奈は硬直する。ちなみに2人の住むボロアパートの家賃は毎月割り勘で、一人頭1万7千500円を用意し、そのお金を祐奈が直接大家に渡すルールになっている。
「…………は? いや、なんでお前そこでビクってなるん? は? いや、お前嘘やろ? やめろや!」
「………………え? な、なにが?」
和夫は後ずさる祐奈をがっしりと捕まえガクガクと揺さぶる。
「いやいや、家賃やん、俺ちゃんとお前に半分渡したやん、お前も残りイケるって言うてたやん、俺お前のこと信じてるやん!」
「いや、あ、あの、……うっ、ううっ、ぐすっ」
祐奈は和夫に掴まれガクガクと揺さぶられたまま涙を流し始めた。家賃が用意できていないことを察した和夫は、努めて優しく問いかける。
「……で、ナンボ足らんの?」
祐奈は目を合わせずに嗚咽交じりに言う。
「……っ、まん……ぇん」
その消え入りそうな声はちゃんと聞き取れず、和夫は少し苛立ちを滲ませながら今度は厳しく問い直す。
「え? ナンボって? なんか嫌な予感すんねんけど? まんえん言うたお前? なんなん万単位で足らんの?」
「………………………………さ、さん、3万5千円」
祐奈はなおさらうつむきつつも、今度ははっきりと告げる。
二人の住むアパートは駅から徒歩30分のところにあり、間取りも狭く築年数も古いため家賃は据え置き、月3万5000円である。
つまりそう、
「全額やんけ! いや、俺のは? 俺が渡した分どないしてん!」
怒鳴る和夫に、祐奈はおそるおそる続ける。
「……あのな、その、バイト先いったらやっぱ今日はいらん言われてな、…………そんでな、足らへんどうしよう思て歩いてたらパチ屋あってな、そんで……」
「お前……」
「カズくん……でもな?」
呆れで眉を潜める和夫。
「……でもなんやねん」
「あのな? 900ハマってるジャグ……」
「ジャグラーはハマっても当たる確率一緒じゃー!!」
思わず和夫は立ち上がり怒鳴る。
「ひっ!」
「なー!!」
声を荒げる和夫に祐奈は頭を抱え怯える。
和夫はそのまま地面に転がるとしばらくのたうち回り、やがて動かなくなった。横たわった和夫の身体には、しばらく干していない布団から舞い散った埃が降り注ぐ。
「ふぅ、……はぁ、まあしゃーないか。……つってもなぁ、キャッシングやらなんやらは審査通らへんしどないしたもんか」
「……ごめんなぁ。……ごめんなぁ」
「……もうえーから、どうするか考えよや」
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