第九章 蒼き時の彼方に 六
ほんの数秒間の出来事が、これほどまでに長く感じられるものだろうか。しっかりとベースを踏みしめたままの左足がもどかしい。
やや斜め後方で、動向をつぶさに見つめている富岡が「その時」を待っていた。
最後は両手に付いたままの砂埃を軽く叩き落としながら、ひと呼吸を置いたのち、一歩、二歩、三歩とベースから遠ざかっていった。
「今だ……」
瞬時に飛び出した富岡のグローブが、ランナーの背中を刺した。
「アウト!」
塁審の右手が上がると、すぐには状況を飲み込めないのか。呆気に取られ、立ちすくむランナーがいた。
観客席からはブーイングの嵐が押し寄せるも、承知の上と覚悟して挑んだ大芝居だった。
見物客から次々と放たれる辛辣な言葉の矢をかわしながら、九番打者を見逃し三振に打ち取り、マウンドを後にした。
「勝負に汚いもへったくれもあるもんかって。綺麗ごとばかり言ってられねえんだよ!」
仏頂面の磯部が、苦し紛れの毒を吐く。
しかし、それからは両チームとも、再三にわたって得点圏にまで走者を進めながら、決定打に欠き、重苦しいムードに包まれていった。
息苦しいほどの投手戦。石井は七回二死まで無安打投球、対するは十奪三振、無失点と相手打線を寄せ付けず、互いに譲らなかった。
誰もが一点勝負を考え始めた八回表。不気味な均衡を破る、絶好のチャンスが巡ってきた。
石井の得意とする、ストライク・ゾーンぎりぎりを突く投球が悉く逸れて、先頭打者の万場が四球で塁に出た。
今度こそはと、意気込んで打席に立った藤岡が、送りバントで完璧に仕事をこなした。
軽快な足取りでベンチに戻ってくる藤岡を、上野がハイタッチで迎えた。
「連投の疲れが出てきたんですかね。球威が落ちてきている」
開口一番に放った藤岡の言葉も頷けた。
日産のエースだった石井は、住金に移籍してからもチームの大黒柱として活躍していた。
今大会に於いても、四試合すべての先発を任され、投げ抜いてきた。
顔にはおくびにも出さないが、時折フッと僅かに首を傾げる仕草を、当人は気付いているのだろうか。
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