第九章 蒼き時の彼方に 六
これまでも色々と物議を醸してきた隠し球。
日本では太平洋戦争中の一九四三年に『武士道に反する』との理由から、固く禁止された。
当時は戦時中の野球ルールが存在しており
一、 ユニフォームのロゴはすべて漢字
二、 打者は球を避けてはいけない
三、 隠し球の禁止
四、 「盗塁」の文字を「奪塁」に変更
五、 最後まで戦い抜くために選手の途中交代禁止
六、 九回表で勝負がついても敵を徹底的に打ち
のめすために九回裏の攻撃もあり
など、軍事色を色濃く反映した内容が印象的であった。現代に至っても「正々堂々としたプレイではない」「スポーツマンシップに反する」との声も多く聞こえてくる。
敬遠されがちではあるが、公認野球規則では特に定義もされておらず、非難轟々の野次を飛ばされるのも覚悟の上だった。
周囲の目を掻い潜り、一瞬の隙をついて淡々と速やかに、且つ慎重に実行せねば、単なる茶番劇に終わる可能性が大きかった。
一か八かの大芝居。審判の掛け声とともに幕は上がった。
身も心も取り繕い、高まる緊張感を得意のポーカー・フェイスで覆い隠す。
分身とも言うべき右手のグローブにおとなしく収まっている球を強く握りしめ、祈りを込めた。
相変わらず大きくリードを取る一塁ランナー。前かがみになり、ブラブラと振り子のように揺れる右手が、タイミングを窺っていた。
背後にも目を光らせながら、込み上げてくる衝動を一旦大きく吐き出し切った。
次の瞬間、軸足でくるりと反転し、共謀者をめがけて球を走らせる。間に合わないと判断するや否や、ランナーは慌てて頭から滑り込んだ。
巻き上がる砂煙、累審の大袈裟なジェスチャーがセーフを告げた。
寸分の差で間に合ったランナーが、ゆっくりと立ち上がった。
安堵の息を吐き、厚い胸板にこびり付いた泥を見やりながら、両手で払っている。
緊迫した状況から解放された一瞬が招く気の緩みを、富岡は見逃さなかった。
さりげなく周りを伺いながら、何食わぬ顔をして返球するふりをした。
投げ返された幽霊球を、嘘つきな右手が確かに受け取った。
脇の下にグローブを挟むように抱え込んで、うまく時間を稼ぎつつ、ボークをとられぬよう、さり気なく投球板から遠ざかる。
息をひそめ、目の動きだけで素早く周囲の様子に探りを入れるが、気づいている気配は感じられなかった。
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