第九章   蒼き時の彼方に   五

「石井もよく怒られてたでぇ。お前、試合じゃ投げねんだろ、投げねぇ奴の練習に付き合っている暇は、ねぇんだよ! ってな感じでさぁ。でも、石井は逃げずに黙々と投げ続けた。すると、周囲の目も変わってきた。容赦のない罵声も激励の野次にと、変わっていった」

 語らずとも、石井の醸し出す意気を、チームメイトたちは敏感に感じ取っていた。

「よく、親父に言われました。野球は技量のみでなく、精神を多く取り入れねばならない。精神さえ堅持していれば、走、攻、守、投、打は立派にできる。バランスが大切だとね」

 再び磯部の器用な手先が、ペンをくるくると弄び始めた。

「日に日に、石井の目に正気が漲ってくるのが分かった。チームメイトとも、自ら積極的にコミュニケーションを取るようになって、ぎくしゃくとしていた歯車が、ようやく滑らかに回り始めた。あまりの変わりように周囲も戸惑うほどだったよ」

 孔子の言葉で「良薬は口に苦けれども病に利あり。忠言は耳に逆らえども行いに利あり」との名言がある。

 良薬は苦いが飲めば病気を直してくれる。忠言は聞きづらいが、行動のためになる。

 後輩の言い放った容赦ない一言が良薬となり、石井の中に眠っていた力を覚醒させたのだろう。

「やっぱ、最後は人間力ですよね。石井はそれに気づいたんでしょう。今更やけど野球はチームプレイやし、常日頃からのチームメイトたちとのコミュニケーションは大事やね」

 磯部の言葉に小さく頷きながら、上野の話は続いた。

「俺もお袋に、事あるごとに言われたよ。みんなに可愛がってもらえる人になりな、ってさ。一人で何でもやろうと思うな。みんなに可愛がってもらえる人は、多少のヘマをしても周りが助けてくれる。人は、一人じゃ生きられない。謙虚な気持ちを忘れるな、とね」

 ともすると、独りよがりで殻に閉じこもりがちな己の姿と重なり、少々耳の痛い話だった。

「孝一、石井には気を付けろよ。やつは自分の「間」自分の「ペース」をしっかりと持って、ポーカーフェイスで投げ抜く。石井のグラブには「信頼」と「感謝」の文字が刻まれている。一度は地獄を見た男だ。底力がある」

 俺だって……地獄なら俺だって見てるさ。しかも、まだ囚われの身のまま。

 白い鱗を怪しげに光らせ、とぐろを巻いた巨体が、じっと俺に睨みを利かせている。

 血の滲む紅の眼の呪縛から逃れられずにいた。

「似たもの同士の投手戦かぁ。いや〜、なんかゾクゾクしてきたっすよ。ねっ、りゅう兄ぃ!」

 軽く肩を叩かれ、はっと我に帰った。

「まぁ、どうこう言っても、明日で決まる。碓氷監督に黒獅子旗を見せるぞ。負けられん」

 背筋にゾクリと鳥肌が立つ。血眼の目が一瞬、記憶の片隅を過ぎった。

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