第九章   蒼き時の彼方に   三

 観客席からは坂上コールが巻き起こり、期待を一身に背負った男の背中がマウンドに向かって吠える。

「坂上劇場がはじまるでぇ〜」

 どこかで聞いたようなキャッチフレーズに、沼田の口元が一瞬、緩んだ。

 奇跡の瞬間を目の当たりにしたのは、カウントが二ストライク、二ボールと、まさに崖っぷちに立たされた場面で訪れた。

 磯部の予想通り、渾身のストレートで勝負を挑んできた日立に対し、坂上のバットが思い切りよく振り抜いた。

 確実に芯をとらえた瞬間に鳴り響く特有の快音が、球場内にこだまする。ら

 初夏の到来を匂わせるギラついた午後の太陽に向かって、白球のが勢いよく舞い上がった。

 大きなどよめきと共に、観客たちの目線が一斉に球の行方を追いかける。

 大きなアーチを描きながら徐々に失速し、レフトポールを巻き込むように外野席上段に飛び込んでいった。

「本当にやっちまった……」上野が唖然としてつぶやいた。

 突然舞い降りてきた奇跡に、観客席は狂気乱舞の様相を呈し、チアガールたちのポニーテールが喜びに揺れ動いた。

 天に向かって拳を突き上げながら、坂上がゆっくりとベースを回っていく。沼田も立ち上がり、拍手で迎えた。

 土壇場での逆転劇に興奮冷めやらぬまま、いよいよ最終回の守りに入っていった。ゲームはまだ終わっていない。

 何とか逃げ切りたい富士重と、あわよくばゲームをひっくり返してやろうと意気込む日立の思惑が、交差する。

 上位打線、三番からのスタートは鼻持ちならなかったが、それでも三人できっちり終わらせ、勝ちを決める瞬間のイメージが揺らぐ事はなかった。

 磯部の見事な配球術は、容易にバットを振らせない。外角低めのストレートに始まり、緩急をつけながらの変幻自在なリード。日立打線は完全に手玉に取られていた。

 手強い先頭打者を呆気なく三振に打ち取ると、続く四番をストレートで力押ししていき、カウント二ー二から内角低めのシンカーで二死とした。

 磯部が人差し指を立て、ラスト一人のアピールをする。

 スライダーをうまく使い二球で追い込むと、湧き上がる歓声とともに「あと一つ‼︎ あと一つ‼︎」場内から一斉にコールが始まった。

「この一球で、止めを刺す」と大きく息を吸い込み、天を仰ぎ見た。

 どこまでも続く空の青が目にしみる。帽子を少し目深に被り直し、磯部のサインを待った。


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