第七章   登龍門   七

 沸き立つベンチ、飛び交う歓声。駆け寄ってくる磯部の姿、今にも消えそうな真昼の月。

 俺の中に流れている時間と、周りを取り囲んでいる時間。互い違いに流れているような奇妙な感覚に、軽いめまいを覚えた。

 全てが取り留めのない夢の中の出来事みたいだった。

「やったぜ! 俺たち決勝進出っすよ‼︎」

 躍動感みなぎる声に、交差していた時間がぴったりと重なり合う。

 静かにこみ上げてくる感動。

 順調に白星を重ねていくにつれ、深く心の奥底に封印されていた何か、忘れかけていた何かが、目覚めようとしているのを感じていた。

 微かな疼きは、新たなる世界へ羽ばたく時が近づいた兆しなのか。

 誰一人として、避けては通れない。自分自身の力で固く守られた殻を突き破り、新たに生まれ変わる。厳かで静謐なる儀式。

 固く閉ざされた内なる世界は、あらゆる危険から守られこそすれ、ぬるま湯漬けの日々は、じわじわと心身を蝕んでいく。

 危険と知りつつも、未知なる外の世界に対する思いは膨らむばかり。

 どうしようもなく強い憧憬が魅惑的な幻想をかき立て、手招きをする。

 宿舎に向かうバスの中、心地よい疲れが浅い眠りへと誘う。

 見覚えのあるグラウンド。

 行き交う白いユニフォーム、同色の帽子には赤い『W』の文字。

 途方にくれたようにマウンドに立ち尽くす青年。

 エースナンバーを背負った背中が、やけに小さく見えた。

 夕日を受け、グラウンドに細く長く伸びた影が堪らなく侘しい気持ちにさせた。

 それは、もう一人の自分。置き去りにされたまま、主を待ち続ける遠い日の影法師。

 つらい現実を受け入れられず、二つに引き裂かれてしまった自分自身の片割れが、ようやく見出された喜びに陽炎(かげろう)のごとく揺らめいていた。

 一つになろうと手を差し伸べてくる片割れに、一瞬のためらいが胸をよぎった。

 なぜ? なにを戸惑う?

 戸惑いは不安となり、不安はそこはかとない恐怖となって俺を飲み込んでいった。

「オマエハ タダノ オロカモノカ ソレトモ マコトノユウシャカ」

 頭の中に響き渡る威厳に満ちた重厚な声は、アイツに違いなかった。

 不気味に白く光る鱗に、むき出しになった血眼の目。

 長い眠りから目覚めたアイツが牙をむき、マウンドに立ちすくむもう一人の俺を足元からじわりじわりと締め上げていく。

 苦しそうにもがきながら、助けを求める手に、俺は再び背を向けようと言うのか。

また、逃げるのか。


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