第六章   龍神   六

「龍を忌み嫌う必要は無い。私たちは未熟な人間である以上、あらゆる負の感情を抱くのは当たり前だ。本来なら、負の感情は正の感情の呼び水となるべきものだった」

(俺を惑わす忌まわしいアイツが、助け舟にでもなるというのか)

「今いる場所から、より高みを目指す者にとって、向かい風となる逆境や障害は強固なバネとなる。抵抗がかかるほどに、より高くより遠くへと飛躍できる。だから抗ってはならない。逆に利用するわけだ」

 なるほど。確氷の斬新な発想におぼろげながら答えが見えてきた。

「ピンチをチャンスに変えていく」

 独り言みたく呟いた孝一の言葉に、紺のニット帽が小さくうなずいた。

「そうだ。龍を恐ろしい化け物に変えるのも、己の成長の糧とするのも、飼い主次第さ。自分で生み出したものだ。自分でなんとかできる。それが手懐ける、と言うことだな」

『オマエハ タダノ オロカモノカ? ソレトモ マコトノ ユウシャカ?』

(血眼の眼を剥き、俺に問いただしたアイツ。今再び問われたら、俺は何と答えるだろう)

「ですが、いざ龍を目の前にすると、気持ちが萎えます。とても太刀打ちできないと……」

 確氷がもどかし気に、小さく首を横に振った。

「過度の妄想が、龍を恐ろしい化け物に変えるのだと言っただろう。忘れるな、強い不安や恐れは魅惑的な妄想をかきたてる」

 度を超えた妄想は、やがて現実味を帯び、一人歩きを始める。妄想を大きくするのも、小さくするのも自分。だとするなら、現実と認識している出来事の全ても、己が生み出した幻想の世界に過ぎないのだろうか。

「私たちは皆、恐怖映画が大好きなんだよ。迫力ある映像に見入っているとき、すっかり主人公と同化していく。だが、深入りしてはいけない。あくまで映画に過ぎないと、どこか冷めた目で見る癖をつけろ」

 恐怖のシナリオに人はすっかり魅了され、物事のありのままの姿を忘れているのだろうか。何が真実なのか分からなくなってきた。

 いつか見た、不可解な夢を思い出した。すべては奇妙な夢から始まったのかもしれない。

 毒々しい朱色のバス、一分の隙もなく着こなした紺の制服に身を包んだ美しい車掌、透き通るような青白いうなじ、目深にかぶった帽子から覗く深紅の口紅。

 ぽっかりと口を開けた漆黒の闇に包まれたトンネル。抜けた先に広がっていた景色は、見慣れた故郷の懐かしい風景だった。

 やがてバスは渡良世橋沿いの、ひなびた停留場に泊まる。タラップを降りる孝一の腕を、氷のように冷たい手がとらえ、耳元でささやいた。

『深入りしてはなりませんよ』と。


 

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