第六章   龍神   六

「この桜もいよいよ見納めか」

 紺色のニット帽が、名残惜しげに天を仰ぐ。

「孝一、このボールをお前に委ねたい。受け取ってくれるか」

 膝掛けがはらりと捲れ落ち、痩せこけて骨と皮ばかりになった青白く血の気のない手が露わになった。

 初めて会ったとき、握手を求めて差し出された浅黒く節の太い手は、屈強な男臭さに満ちていたというのに。

 猛威を振るう病魔は、たっあ一年で見る影もないほどに何もかもを奪おうとするのか。

 ゆっくりと差し出された、頼りなげな右手に握られていたもの。

 それは、長い年月を経て褐色に染まり、所々に皮のささくれが目立つ硬球だった。

 受け取ろうと手を伸ばした孝一の傍らを、一陣の風が吹き抜けていく。

「春疾風が来るぞ」

 確氷が呟くと、間もなくグラウンドの中心に小さな砂煙の渦が現れた。

 孝一は咄嗟に膝掛けを拾い上げ、舞い上がる砂煙から確氷を庇うように包み込んだ。

 すぐ目の前を足早に駆け抜ける強い西風が孝一のキャップを剥ぎ取り、さらっていった。

「監督、大丈夫でしたか?」

 膝掛けに包まれた、細く薄っぺらな体が、僅かに頷いた。ほっと胸を撫で下ろす。

「りゅう兄ぃ〜 俺のダイビング・キャッチ‼︎

見ましたぁ〜」

 聞き慣れた声がグラウンド内に響き渡る。目を凝らせば、ベンチの前で黄色い鍔を掴んだ手が高らかと掲げられ、してやったりと大手を振っていた。

「大和! ナイスキャッチ‼︎」

 左腕を目一杯振りながら応えた。

「毎年今頃になると、一度ならずともやって来る突風だ。十五人の英霊たちが、孝一に挨拶したんだろうよ」

 ベンチ内に避難していた面々も、続々と姿を現した。

 静まり返っていたグラウンドに再び硬球の詩が響き渡る。

 通り過ぎていった疾風の行方を目で追いながら乱れた髪を直す。

「随分と手荒い歓迎ですね」

「それが彼等のやり方さ」

 確氷が静かな声で笑った。

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