第六章   龍神   四

 今にも張り裂けそうな胸を押さえながら、孝一は風神を取り囲む輪に割って入った。

 薄くなった頭髪を隠す紺のニット帽。土気色の痩せこけた顔に、白いマスクがやけに大きく見えた。

 落ち窪んだ目がギョロリと孝一を捉えた。膝掛けの下から震える手が覗き、挨拶がわりに親指を立てている。

「これは何かの間違いだ」

 変わり果てた姿に、孝一は息を呑んだ。 目の前にいるこの男は、いったい誰なのだ?

「確氷監督は体調も安定しているとのことで、一時帰宅を許され、グラウンドに足を運んで下さった。長い療養でお疲れのなか、明日から始まる静岡大会をとても気にかけていらっしゃる。先ずは一勝を挙げ、よい報告ができるよう、我々も頑張ろう」

 沼田の声は虚しく耳をかすめ、単なる言葉の羅列が無秩序に孝一の脳裏を駆け巡っていた。現実を受け入れられずに戸惑う心は、春のそよぎに紛れ虚しく彷徨う。

 確氷が覚束ない手でマスクを外した。骨と皮ばかりになった手の甲には、大小の血管がくっきりと浮き上がり、まるで正気を吸い取って膨れ上がる寄生虫のように見えた。

 取り留めのない夢を見せられているだけだ。そうであって欲しい、と孝一は願った。

 しかし時折ふっと吹く、桜の甘い香りを孕んだ微風に五感を刺激されるたび、どうしようもなく現実へと引き戻されるのだった。

 軽く咳払いをする血の気のない口元は、何を語るのか。

「長い入院生活となってしまい、皆に迷惑をかけてすまない。沼田部長からオープン戦の報告も受けたが、頑張っているな。チーム・スローガンは『積極一貫』〜黄金期の復活〜だ。いよいよ五月から都市対抗一次予選も始まる。みんな、しっかり頼んだぞ」

 トレードマークだった低く野太い声はすっかり影をひそめ、しっかりと耳をそばだてていなければ聞き取れないほどに、弱くか細い声だった。

 辿々しい口調ではあったが、圧倒的な威厳と存在感はそのままに。確氷の言葉は部員一人一人の思いをしっかりと繋いでいった。

「みんな、やるっきゃないよな!」

 腹の底から絞り出すような上野の掛け声が、骨の髄にまで響き渡る。

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