第五章   風立ちぬ   十

 孝一は改めて己の左手をまじまじと見つめながら思った。

 今更ながら、この手で今シーズン投げ抜けるのかと、ふと、弱気になる。

 またあの『地獄』を見ることになるやもしれないのだ。

「りゅう兄ぃ、大丈夫っすよ。かつて俺とバッテリーを組んでいた奴も、似た症状で苦しんでいた。でも、きちんと克服できましたよ。それは『イップス』と呼ばれているもので、極度の緊張とプレッシャーが引き起こす『心の風邪』みたいなものです」

『心の風邪』か。なかなか上手い表現だ。

「そん後、武尊兄ちゃんは……」

 片足を引き摺りながらの就活は困難を極めたが、持ち前の明るさで乗り越えた武尊。

「武尊は挫けず、腐らず頑張ったさ。不自由な足で就活にも励んだが、なかなか決まらなくて。幸いにも、真琴の叔父が高崎達磨の絵師をしていてさ。若い芽を育てたいと、武尊を快く受け入れてくれた。武尊の新たな一歩は、この古びたアパートから始まったんだ」

 今は絵筆を鑿に持ち替えて、新たなる世界の扉を開いた武尊。

「俺たちも、新しい一歩を踏み出さなけりゃなりませんね。最初このアパートを見たとき、来るんじゃなかったと後悔しました。でも、やっぱり来て良かったっス」

 磯部が小さなフレームの中の二人に向かって、微笑みながらピースサインを返した。

「書き置きによると、武尊は今、仏像彫刻をしているらしい。相変わらず、居場所は分からずじまいだが。今年の七月に作品展があるので連絡するから見に来いと書いてあった。そのときは、大和も一緒に来てほしい。あいつ、びっくりするぞ。結婚もして、四月には父親になるそうだ」

 孝一は、折り込みチラシの裏側にびっしりとつづられた想いを丁寧に折りたたんでポケットに忍ばせた。

「本当ですか! やるなぁ、武尊兄ちゃんも。今まで散々苦労してきたんだ。幸せになってもらわなけりゃ困る。再会できる日が楽しみですね。七月だと俺たちも都市対抗の真っ最中ですね。お互いにいい報告ができるよう、頑張りましょう!」

 どちらからともなく差し出された手でガッチリと握手をした。

(俺の左手が放る球を受け止めてくれるのが、この力強い右手であって欲しい)と孝一は心から思った。

「さぁ、帰ろうか」

「帰りましょう‼︎」

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