第五章 風立ちぬ 十
台所から漏れ広がる明かりが、炬燵の上に置かれた『なにか』を照らしていた。それは真琴の墓前に備えてあったものと同じ手のひらサイズの観音様だった。
孝一は思わず手に取り、その場にへなへなとしゃがみ込んだ。
「どげんか、しとった?」
居間の明かりが灯り、背後で磯部の声がした。固く握り締めた手のひらをそっと開く。甘くふくよかで優美な白檀の香りが、ゆらゆらと立ち昇ってきた。
「武尊兄ちゃんの顔に、そっくりだ……」
柔らかな木肌の温もり。彫刻刀の刃を宛てがった痕跡を指でなぞれば、武尊そのものを感じ取れた。
繊細な中にも力強いタッチ、随所に垣間見える荒々しさ、それでいて温かみのある柔らかな曲線美。
どことなく憂いを秘めた、柔和で優しい観音様の顔は、磯部の言う通り武尊そのものだった。
厳ついキャッチャー・ミットの中に隠れていて気づかなかった、節がなく細く長い女のように美しい手。その手で一心不乱に仏像を彫る武尊の姿が目に浮かんだ。
「なんか、書き置きがしてあるけんね」
磯部の指差す先に目をやると、炬燵の上に薄っぺらな紙切れが一枚置かれていた。
観音様に気を取られていて、気付かなかった。激しく高鳴る鼓動をなだめすかしながら、懐かしい癖字を目で追った。
【孝一。心配をかけて、すまなかったな。あの事件のあと、俺は心身喪失のような状態になり、今でも留置所を出てから数日間のことは、よく覚えていない。
どこをどう彷徨ったのか。気がつけば群馬から遥か遠く離れた場所で、見知らぬ女の部屋に転がり込んでいた。その女は今、俺の女房だ。俺も来年の春には父親になる。どうだ、すごいだろう!
生まれ来る我が子には、絶対に俺のような幼少時代を送らせまい。
俺の持てるもの全てを惜しみなく注ぎ、常に傍らで見守ってあげたい、と強く想う。
ところで。マコの墓前に観音像を置いたのは俺だ。彫ったのも俺。
今は来年の七月に開催される展覧会に向けて、大掛かりな作品に取り組んでいる。
何を彫っていると思う? 雷神だぜ‼︎ 吹き出す孝一の顔が目に浮かぶぜ。今、読みながら笑ってるだろう? まぁ、いいさ。
その観音様は孝一にやるよ。気づいたか?
足元に小っちぇえ龍が彫ってある。
人の心には、荒ぶる神が棲んでいる。俺には雷神が。孝一には渡良世川の龍神がな。
仏像を彫っているとき、心がとても静かに穏やかになってくる。無心になれるんだ。
雷神を彫り始めた頃は、過去のあやまちを嘆いては様々な感情に翻弄されるばかりだった。どうしたらいいか分らずに、自棄を起こしては力任せに鑿を振るう日々が続いた。
暴れる雷神を押さえ込もうとすればするほど、酷くなる。
やがて疲れ果て、無駄な足掻きをやめたとき、俺の中で何かが変わったのを感じた。
雷神を忌み嫌うのはやめて、正直に自分の一部であると認めればいい、とわかったんだ。それからというもの、余計な力が抜けて静かな心で雷神と対峙できるようになってきた。
孝一の中で龍神が暴れ出したときには、俺の話が少しでも役に立てたらと思ってさ。
それと、孝一にずっと謝りたかった事がある。あの日、酒の席で『お前の偽善者ぶったところが大嫌いだった』と言ったけど、すまなかったな。訂正させてくれ。
孝一はそんなズル賢い男ではないと知っていながら、酷いことを言ってしまった。
俺は孝一に、ずっと劣等感を抱いていた。
小学生の頃から何をしても孝一には敵わなかった。いつもお前の背中を追いかけていた。追いつけ、追い越せで無我夢中だった。でも焦れば焦るほどつまらない小石に
あの事件の夜、久しぶりに再会して思った。孝一は和菓子職人として、マコは着物作家として、着々とキャリアを積んでいるというのに、俺はなにをやっているんだと。
こいつらには永遠に追いつけないんじゃないか。そんな自分がちっぽけに見えて、焦りと不安に押しつぶされそうだった。
最後の別れになるんだったら、もっとマコに優しくしてやればよかったと後悔している。自棄になった俺をかばい命を落としたマコ。マコがくれた巻物を見るたびに思う。
俺はなにを勘違いしていたんだろう。マコも孝一も、いつだって俺を待っていてくれたじゃないか、ってさ。
俺が追いかけていた二つの背中は、俺が勝手なイメージで作り出した孝一とマコの幻だったんだとね。
俺は馬鹿だった。仏像を彫るようになった動機も、自らの犯した数々のあやまちを償いたかったからだと思う。つまらない話を長々とした。
来年の七月に展覧会を見に来いよ。詳しい日程が決まったらメールに入れておく。
再会できる日を楽しみにしてるぞ!
追伸: 野球、始めたんだってな。俺のリードがなくて勝てるのか?
富士重は関東屈指の強豪チームだぞ。
勝利投手となって新聞記事を賑わせる日も近いってか! 頑張れよ‼︎
もう一度、孝一とキャッチボールがしてぇな。離れていても、俺たち三人の心は強く繋がっていると信じている。
2012年12月10日 利根武尊 】
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