第四章   風神   五

「孝一、何時だと思ってるの。早く起きて

、仕込みを頼むわよ」

 二階の階段を駆け上がる足音が聞こえたかと思うや否や、耳元でまくし立てる美佐子に勢いよく布団を剥ぎ取られた。冬の早朝特有の冷気に身震いした。

 和菓子屋の朝は早い。五時には起床して、六時には仕込みを始める。

 裏の勝手口を出ると、渡瀬世川の龍神様を祀った小さな御社があった。

 御社の前には榛名山麓の程よくミネラルを含んだ軟水がこんこんと湧き出している泉があった。

 先ずは毎朝ここで手を合わせるのが、桐生家の古くからの習慣だった。

 餡の円やかな甘さを引き出すために、なくてはならない湧水でまずは、両手を清める。

 よく糊の効いた真っ白な作務衣に身を包むと、途端に身も心も引き締まった。

 不本意であったとはいえ、老舗の暖簾を受け継ぐ決意を固め、修行を始めてから七年の歳月が流れていた。

 最低でも五年は餡の製造や生地造りといった基本の作業を繰り返しながら、勘所を掴んでいく。一長一短に身につくものではない。

 餡を包む技術は、体が覚えるまでに十年はかかると言われていた。

『五感の芸術』とも言われる和菓子作りは、豊かな感性と創造性、柔軟な発想力が求められる。

 仕事柄、季節の移ろいや美しい景色、色とりどりの花々や旬の果物にも、自然と目を向けるようになった。

 伝統を守り続ける一方で、時代や嗜好の変化に合わせて、和菓子自体も弛まぬ変化を求められていた。

 六年目からようやく創作を許され、一つ、二つと孝一の作品もショーケースに並ぶようになっていった。

 瑞々しい感性と独創性、緻密で繊細な匠の技で生み出された和菓子たちは、にわかに評判を呼んだ。

 七年目に入ったとき、県内で開催された菓子コンクールに出品すると、最優秀新人賞を受賞した。

 『惜春』と名付けられた作品は、霞がかった春の空に白味を多く孕んだ空の色をベースにした餡に寒天で作った淡い桜色の花びらを添えた。

 野球への未練を断ち切って、新たなる道を歩む決意を込めた、渾身の一作だった。

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