第二章   雷神   四

「孝一、武尊、どこにいるの? 怖いよ。真っ暗で何も見えないの」

 消え入りそうな真琴の声に導かれ、ようやく悪夢から目を覚ますことができた。

「なんだよ、何なんだよ、これは!」

 何も終わっていなかった。突きつけられた現実は凄惨な修羅場の続きに過ぎなかった。

 仕留めた獲物に興味が失せた青大将は、薄笑いを浮かべゆっくりと後退りした。

 自ら生贄となった獲物に深く突き立てられた刃が、鈍い光を放ち小刻みに震えていた。

「マコ、しっかりしろ! 俺だ、孝一だ‼︎」

 抱き上げた背中までが血糊にべっとりと染まり、しっかと見開いた瞳が激しく痙攣を始めた。

 腕の中で次第に消えゆく命の灯火を再び強く燃え上がらせることができるのなら、俺は今ここで、俺の全てを差し出しても構わないと思った。

「龍神さま、俺の命と引き換えで構いません。どうか、どうか、マコの命を助けてやって下さい」

 華麗に舞う白龍の如く、闇を切り裂くいかづちは、交渉の成立を告げたのか。

《ソナタノネガイ、シカト、キキイレタ》

「死んじゃった、死んじゃった。マコが死んじゃった」

 だらしのない口元から糸を引くよだれを拭いながら、青大将が覗き込んでいた。

「てめぇ、ぶっ殺してやる! マコなんて気安く呼ぶんじゃねぇ‼︎」

 男に馬乗りになった武尊は、容赦なく顔面を殴り続け、やがて激しく噴き出した血飛沫が、武尊を赤く汚していった。

 と、突然、真琴の体から力が抜けていくのがはっきりとわかった。

 抱きかかえる手に、更にずっしりとした重みが加わってくるのを感じた。

「マコ? マコ、どうしたんだよ。しっかりしろや」

 相変わらず大きく見開いたままの目は、落ちてくる雨垂れにも反応しなくなっていた。

「馬鹿だな、目を瞑れよ。俺も武尊も、ここにいるから。ずっとマコのそばにいるから。心配するなよ」

 震える手で、そっと両の瞼を閉じ、しっかりと抱き締めた。

 大丈夫だ。龍神さんはきっと願いを聞き入れてくれる。だって、俺たちの守り神だろ?

 どこからともなく聞こえてくるサイレンの音。

 いつの間にか形成されていた人だかりの山では、夥しい数の傍観者の目が、三人の動向を固唾を呑んで見つめていた。

 歯止めの利かなくなった武尊を止める者さえいない。

 これは映画の撮影じゃないんだ。誰か、俺たちを助けて下さい!

 螺旋階段を駆け上がってくる複数の靴音が雨音混じりに響き渡った。

 人混みをかき分けて駆けつけた警察官の一人が武尊を取り押さえ、もう一人の警官がぐったりと横たわる男に、頻りに声をかけていた。だが、反応している様子はなかった。

 完全に伸びきった青大将は、ふにゃりと無様な姿を晒し、担架に乗せられ、運ばれていった。

 搬送される途中の救急車の中で、眠るような安らかな顔をした真琴は、静かに息を引き取った。

 龍神との交渉は決裂したまま、呆気なく終焉を迎えた。

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