第一章   なごり雪   五

 ふと、勇者の儀式で起きた不可解な出来事が脳裏を過った。

 どうしても梅吉に話しておかなければと感じていた。

「梅ちゃん。俺、龍神さまに遭ったんだ。気を失ってるとき」

 渡良瀬川の深き淵で繰り広げられた荘厳なる一大絵巻が禁断の紐を解かれる時を待っていた。梅吉が珍しく神妙な面持ちで訊ねた。

「おめぇ、そりゃ本当か。本当に遭ったんかい?」

「本当だよ。多分、俺は橋の欄干から飛び降りた直後には気を失ってたんだと思う。あの冷んやりとした水の感触さえも覚えていないんだからね。そん時、不思議なことが起きたんだ。頭の中で、はっきりと声が聞こえた。《オマエハ ダレダ》ってね」

 ごくりと唾を飲む梅吉の喉仏が、ゆっくりと上下に動いた。

「恐ろしくて返事もできずにいると、もう一度はっきりと《オマエハ ダレダ》と聞かれた。怖かったけど、勇気を出して目を開けてみたら、川の流れに身を委ねるように、そりゃあ優雅に泳ぐ真っ白な美しい龍が、真っ赤な目を剥いててさ」

 睨むように見据える二つのまなこは、既に本質を見抜いていたのかもしれない。

「子供心に逃げることはできないと悟った俺は腹を決め、龍を睨み返した。すると、また、謎掛けをしてきやがる。《オマエハ ダレダ タダノ オロカモノカ ソレトモ マコトノ イサマシキ ワカモノカ》ってね」

 梅吉は口をあんぐりと開けたまま、信じられない、といった面持ちで首を横にふった。

「おめぇ、本当に遭ったんだな。龍神さまに。昔、爺さんから聞いたことがある。爺さんも勇者の儀式で川に飛び込んだとき、やっぱり真っ白な龍神さまに遭ったんだと。同じ事を聞かれたらしいでぇ。それでおめぇ、なんて答えたんだい?」

 橋の欄干を背にもたれ掛かる梅吉の声が、ワントーン低くなった。

 孝一は足元に転がる小石を拾い上げ、渡良瀬川めがけて思い切り投げつけた。

 川面に映る月が、グニャリと歪んだ。

「俺は桐生孝一だ! 真の勇者だ‼︎ ってね。なんの躊躇いもなかった」

 全ての不安を、恐れを、迷いを振り切って龍神の懐に飛び込んでいった少年たちを、勇者と云わずして、なんと云おう。

「爺さんも、おめぇと同じ言葉で返した。そしたら何も言わずに大きな身を翻して、川上の方に消えていったそうだ。もし下手に命乞いでもしようものなら、たちまち屠られて、あの世行きらしいでぇ。恐ろしい話だぃ」

 梅吉はジャンパーのポケットからホープを取り出し、慣れた手つきで煙草に火をつけた。百円ライターの炎が浮かび上がらせる横顔が、ぼうっと温かみのあるオレンジ色に染まった。

 短く太い巻きの先端から燻らす煙は、蜂蜜に似た甘い香りがした。懐かしい匂いだった。記憶が鮮やかに蘇る。

「龍神さまは、じっと俺の目を見つめていた。威厳に満ちた紅の眼だった。暫くすると、真っ白な身をくねらせ、悠々と川上に消えていったよ。程なくして、何度も俺の名を呼ぶ声が聞こえてきて、恐る恐る目を開けた。梅ちゃんの姿が見えたときには、ホッとしたよ。俺を助けてくれたんだよな、梅ちゃんが」

 ただし約束どおり、その命と引き換えに。

「なぁに、人として当然のことをしたまでだいねぇ。それに、おめぇを死なせたら、先に逝っちまった敬三爺ちゃんにも顔向けできなくなっちゃうでぇ。俺はあの世へ行く時にゃあ、堂々と胸を張って行きてぇからさぁ」

 心ノ臓を鷲掴みにされたような衝撃に、孝一の中を駆け巡る血が凍りついていった。重苦しい沈黙の時が流れる。

「やっぱり梅ちゃんは気付いてないんだ」

 こんなときに限って、気の利いた言葉の一つも思い浮かばない自分が、もどかしい。

 初孫の孝一を目の中に入れても痛くないと可愛がっていた敬三は、梅吉の店にも度々連れ立っては、訪れていた。

 初めて野球を教えてくれたのも、敬三だった。

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