第二章 雨音
第1話 出会い
昼休みになり、さあ飯だと意気込んで包みを開けたが、そこには弁当を食べるのには欠かせない箸が入っていなかった。
新学期が始まって、四度目だ。母さんそろそろ学習してくれと心の中でぼやきつつ、俺は弁当は机の上に広げたまま食堂へ向かった。
食堂には、すでにカウンターに並ぶ長い列が出来ていた。その脇をすり抜け、俺は箸を一組掴むと踵を返した。
そのとき、思いがけなく近くに人がいた。踏み出した一歩をあわてて止めたが、それと同時に「ひゃあっ」という悲鳴が聞こえた。直後、腹のあたりに熱がぶつかり、遅れてじわりと濡れた布が肌に吸い付く感触が広がる。
驚いて自分の体を見下ろすと、制服の白いシャツに薄く黄色い染みがじわじわと広がっていくところだった。
「わわ、ごめん!」
顔を上げると、うどんの載ったトレイを抱えた女子生徒がいた。
顎のあたりまである、染めたように明るい栗色の髪がまず目についた。目を見開いて、俺の制服のシミをなにか恐ろしい怪物でも見るかのように凝視している。
「いや、俺こそ」と言おうとしたとき、彼女はいきなりトレイを乱暴に傍らの空いていたテーブルに置いた。
テーブルにぶつかった衝撃で、うどんの汁が数滴トレイとそれを飛び越えてテーブルにまで散った。けれどまったく気にした様子はなく、彼女は混乱したように俺のシャツをぎゅっとつかんできて
「ど、どうしよう。熱い? 熱いよね?」
実際なかなか熱かったが、反射的に俺は「いや、そうでもない」と答えていた。だが、彼女の耳に入った様子はなかった。
「とりあえず、脱いだほうがいいよね!」
しばし考えたあとで彼女が至ったらしい結論に、考えるより先に彼女がつかんでいるシャツのすぐ下を俺もつかんだ。
「いや、だから大丈夫だって。熱くないって」
「でも火傷しちゃったら大変だよ。それに、早く洗わないと汚れ落ちなくなっちゃうかも」
「大丈夫だろ、うどんだし」
さっきから、周りの視線が少し気になる。彼女は相変わらず俺のシャツをつかんだままだ。俺が手を離せば今にでもシャツを脱がしにかかりそうで、俺は身動きがとれずにいた。
「とりあえずさ、手、離し――」
途方に暮れてそう言いかけたとき、見かねたように近づいてきた一人の男子生徒が、女子生徒の後ろに立つなり思いっきり彼女の頭をはたいた。その動きに、遠慮などまったく見あたらなかった。
「なにやってんだ、お前」
女子生徒は痛みに顔を歪め、右手で叩かれた後頭部を押さえた。その反応を見る限り、なかなかの力だったようだ。俺はとりあえず、彼女の手がシャツから離れたことにほっとする。
「痛いなー、もう! 駿、もうちょっと加減してよ!」
「お前が公然とセクハラやってっからだろ。つーか、何してんだよ、これ」
男子生徒の目が俺に移る。非常に困りきった状況にいたため彼が救世主のように思え、妙に眩しい。
「みながぶつかっちゃって、それで汁がかかって制服汚しちゃったんだよ」
俺のシャツのシミを指さしながら、彼女が説明する。ふうん、と男子生徒は相槌をうつと
「じゃ、とりあえず水道行こうぜ。それ、洗わねえとな」
そう言うなり、さっさと歩き出した。
当然のように着いてくる女子生徒に、
「いいよ、うどん早く食べないとのびるぞ」
と未だテーブルに無造作に置かれたどんぶりが気になってそう言ったけれど、彼女は「いいのいいの」とあっけらかんと笑って首を振った。
彼女に教えられたとおり、ハンカチをシャツの汚れた部分の下に敷き、そこを濡らしてから上からぽんぽんと軽く叩いていると、驚くほど汚れは薄くなっていった。
ほぼ元の白色に近づいたシャツを見て、彼女は満足そうに「ほら、みなの言ったとおり!」と胸を張った。
「よかったー、ちゃんと汚れ落ちて。もし汚れ落ちなかったら、みな、どうやってお詫びすればいいのかわかんなかったよ」
「大袈裟だって。別に汚れ落ちなかったくらいで……あ」
面白いほど汚れが落ちていくもので、調子に乗ってどんどん制服を濡らしていってしまったあとに、今日は体育がないためジャージを持ってきていないことを唐突に思い出した。じっとりと水を吸った制服を見下ろして、苦笑する。
「やば……俺、今日ジャージ持ってねえんだった」
「ああ、俺のでよかったら借りるか? 今日体育あったけど半袖着たから使ってないし」
本当に、一瞬彼が輝いて見えた。
「マジで? さんきゅ、助かる」
続けて名前を呼ぼうとして、知らないことに気づいた。
「あ、そういや名前は?」
「みなだよ、園山みな。こっちはね、駿。高須賀駿。きみはー?」
名乗り返すと、二人の俺の名前を復唱する声が重なった。
この二人ってやっぱり付き合っているんだろうか、とふと思った。お互いに対する遠慮のなさだとか息のあった感じだとかはそんな感じがするけれど、二人の間の雰囲気はそれとは違うもののようにも感じられた。
「じゃ、俺ジャージ持ってくるから待ってろよ」
そう言って階段を上っていった高須賀の背中を見送ったあとで、さっき浮かんだ疑問をさっそく園山さんに尋ねてみた。
「園山さんと高須賀ってさ、付き合ってんの?」
一秒も間を置くことなく、「まっさかー」と園山さんは笑って答えた。
「駿とは中学が一緒で、その頃から仲良かったんだ」
その言葉は何度使われたかもわからない使い古された常套句のように、園山さんの口から淡々と発せられた。実際、そうなのだろう。彼女の声には、その質問は聞き飽きたという色が滲んでいた。
そのとき、忘れていた空腹がふたたびこみ上げてきて、そもそもの事の原因となったうどんのことを思い出した。
「あ、園山さん、もういいから、うどん食べてきなよ。時間なくなるぞ」
「そんな、みなのせいでこんなことになっちゃったのに、みなだけ食べるわけにはいかないよ」
「べつに気にしなくていいって。だいたい、俺も悪かったんだし」
「ううん、あのときはみな、他の人がとんこつラーメン食べてるの見て、おいしそうだなあ、ラーメンにすればよかったかなあとか考えて、ぼーっとしちゃってたんだよ!」
有無を言わせない勢いで力強く語る園山さんに、圧倒され「あ、そう……」と間の抜けた返事をしてしまった。
やがて高須賀がジャージを抱えて戻ってきた。制服からジャージに着替えると、じっとりと湿った感触が消え、ずいぶん心地良かった。もう一度彼に礼を言ったあとで、ふいに高須賀も昼飯を食べられなかったのではないかということに気づいた。
「そういや、高須賀は昼飯食べたのか?」
「なあ、“高須賀”って言いにくくね? 駿でいいけど」
俺の質問は完全無視して出し抜けにそう言われ、思わず「あ、うん」と頷いていた。それから「俺も、直紀でいいよ」と流れで付け加えておいた。
「明日の五限目が体育だから、それまでに返してくれればいいから」
俺の着ているジャージを指して、駿は言った。とりあえずもう一度礼を言いながら、会話のキャッチボールができてないなとぼんやり思った。
その後予鈴が鳴って、けっきょく俺も園山さんも、おそらく駿も昼飯は食べられないまま教室へ戻った。
階段を上ってすぐに駿が右に折れて、「じゃあな」と一組の教室に入っていったことに、失礼ながら少し面食らってしまった。
この高校には、優クラと呼ばれるクラスがある。一年のときの模試や定期テストの成績優秀者を集めたクラスで、それがこの一組なのだ。
「駿って一組だったのか」
心底意外そうに呟いてしまい、園山さんがおかしそうに笑った。
「そうだよー。頭良いんだよ、駿。あんまりそんな感じには見えないけど」
「たしかに」
彼女の言葉に心から同意して頷くと、園山さんは、あははと笑い声をたてた。人の話聞かないしな、と心の中で続けた。
二組の教室の前で園山さんと別れたあと、思い出したように空腹を訴えだした腹を押さえながら教室に入る。そういえば、食堂に箸を借りに行ってくると告げてから、一緒に昼飯を食べている健太郎をほったらかしにしていたことも思い出した。
健太郎怒ってるかな、などと考えながら教室に足を踏み入れたとたん
「ストーップ!」
と鋭い声が鼓膜を叩いた。
驚いてその場に固まってしまうのと、右足を床に着くのは同時だった。
足の裏にかすかな感触があった。ぱり、という小さな音が聞こえた気がした。
嫌な予感が一気に駆けめぐる。足を動かせないまま顔を上げると、俺と同じようにその場に固まっている教室中のクラスメイトの視線が、こちらに向いていた。
俺のすぐ前に屈んでいた、短い髪を二つに束ねた女子生徒が、床を気にしながら立ち上がった。
「……
困惑して目の前の彼女――粟生野
だが、彼女はすぐに「ああ、桐原か」と呟いて、目は細めたままだったが眉間の皺はなくなった。
「コンタクト落としちゃったの。今、みんなに手伝ってもらって探してるところで、桐原、そのへんに落ちてるかもしれないから足下気を付けて」
粟生野の言葉を聞いて、頭を抱え込みたくなった。「ハードだから、踏んじゃうと大変で」と続いた言葉が、決定打だった。
「……粟生野」
「ん?」
そうっと右足を上げる。嫌な予感は的中していた。その下にあったのは、粉々に砕けた小さなプラスチックだった。
二人、しばらく言葉もなくコンタクトの残骸を眺めていた。
やがて粟生野が、力無く俺の足下にしゃがみこみ、そっと指先で無惨に砕けたレンズに触れた。
「マジで、ごめん」
ようやく、その言葉が口をついて出た。先ほどの園山さんと立場が逆になっているな、と変に冷静な頭の片隅で思った。もっとも、こちらのほうがよほど酷い状況だが。
粟生野は俺の言葉を聞いて、ぱっと顔を上げると、困ったように笑って首を振った。
「べつに、桐原は悪くないよ。こんなところに落ちてたら、そりゃ踏んじゃうって」
笑顔には、隠しきれない悲しみの色が滲んでいた。そこここから、「あー……」「桐原……」というクラスメイトたちの非難するような同情するような、複雑な声が聞こえてくる。
「弁償します」
少し考えたあとでそう言うと、粟生野はティッシュを取り出してコンタクトの欠片を拾い集めながらも、急いで首を振った。
「いいっていいって! 故意に踏んだわけじゃないじゃん。それに、落とした私も悪いしさ」
「いや、でもさ、やっぱ壊したのは俺だし……」
「いやいや、わざとじゃないんだし、気にすることないよ」
そうは言われても、気にしないわけにはいかなかった。
「あー……じゃあ、半額」
考えた末にそう言うと、粟生野はぽかんとして「え?」と聞き返した。
「言い出しといてかっこ悪いんだけど、全額は俺の財力じゃきつそうだから、半額支払うってことじゃ駄目か?」
新しいコンタクト代、と付け加えると、粟生野は苦笑して
「だから、いいって言ってるのに」
「俺が気になるから」
「うーん、わかった。じゃあそうしてもらおっかな。なんかごめんね、逆に」
「なんでだよ。ほんと、ごめんな。困るだろ、コンタクトないと。黒板とか見えんの?」
「あー、大丈夫大丈夫。美保に教えてもらうから」
粟生野は隣の席の友達の名前を出して笑った。
そのとき前方の戸から先生が入ってきたため、二人とも急いで席に着いた。
席に着くなり、前の席に座る健太郎がこちらを向いて「どんまい」と心底気の毒そうに言った。力無く笑みを返してからふと粟生野のほうを見てみると、友達に、あとでノートを見せてくれるよう頼んでいる姿があって、また罪悪感がこみ上げた。
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