24 ごく当たり前の良識 下

 例えばの話だ。


 もしも嫌悪感しか沸かないような嫌いな人間がいて。その人間が死にかけていたとして。それを無視しても誰にも咎められないとして。

 果たして人間は涼しい顔をしてその場を離れられるだろうか。

 多くのサンプリングを取り統計を割り出したとして、その答えがどういう風に転ぶかは分からない。

 だけど少なくとも俺には出来ない事だと今知った。


 例え嫌いな人間でも助ける事が正しいと思っても、知らない誰かの為に。嫌いな誰かの為に動こうとする意思は沸かない。もう沸かない。

 だけど目の前で何かあれば、手を伸ばしてしまう事位は自然とやってしまう。

 反射的に行われるそれは、人間の嵯峨だ。

 そして今は。

 エルを剣にした俺の手が届く範囲は広すぎた。


 そこに付け込まれた。


「……ッ!」


 予めその反応を狙っていたように男が進行方向を切り返し、バランスを崩した俺に切りかかる。

 それを刀から風を噴出させ、無理矢理な態勢で防いだ。

 だけどそんなのは一時凌ぎだ。次の一撃までの一時凌ぎ。


 すぐさま追撃が来る。

 それをどうにかするために、瞬時に思考を働かせた。

 なんとか。なんとか次の一撃を防いで体制を立て直す為の術を無我夢中で探した。


 だけどその答えは見つからず。

 そして訪れたのは悪寒だった。


 目の前の男が振るおうとしている結界の剣。それだけではない。

 背後で風が動いた。


 俺も目の前の男も。自分達以外の人間や精霊を他の所に回させた……筈だった。

 そう、思い込んでいた。

 途中誰もこの戦闘に介入してこなかったから。この出力同士の戦いに参入してくる存在は今回に限っては居ないのだ。そう感じていた。

 だけど……それが命令通りなのか命令違反なのかはわからない。だけど確かにいたのだ。


 きっとこんな瞬間を狙っていた伏兵が。

 次の瞬間、激痛と共に俺の腹部から剣先が見えた。


「ぁ……?」


 そしてそんな声が漏れた瞬間には、結界の剣が俺を薙ぎ払う様に振るわれる。


「グフ……ッ!」


 そして再びの激痛と鈍い声と共に男が視界から消えた。

 一瞬で消える程勢いよく弾き飛ばされた。


 そして勢いよく地面を転がり、樹木にぶつかる事でようやく止まる。


「……ッ」


『エイジさん!』


「だいじょ……ぶだ」


 口から血液が溢れる。

 刺された傷口からは血液が流れ出て、結界の剣で薙ぎ払われた影響であばら骨が粉砕骨折しいている様にも思えた。

 ……それでも立ち上がれた。


「……追撃は」


 フラフラになりながらもなんとか刀を構えて周囲を見渡す。

 ……追撃が来なかった。

 結界を操るあの男も、俺が姿を確認していない刺してきた奴も追ってくる気配がない。

 ……まさか今の一撃で倒したと思ってくれたのか?

 ……だとすれば助かった。


 俺はこの程度ではまだ倒れない。

 あの結界の男の一撃も、天野の拳と比べればまだ軽い。

 まだ、立てる。だから――


『エイジさん! 一旦引きましょう!』


「……エル」


『この戦いはエイジさん一人で抱え込まなければいけないような戦いじゃないんです! 引き下がる選択肢がなかった今までの戦いとは違うんです! 追ってこないんだったら今は治療を! 動けても大怪我なんですよ!』


 考えてみれば、今までの戦いは一度引いて体制を立て直すという選択肢が取れない戦闘しか無かった。

 だけど今回は違う。戦っているのは俺だけじゃない。

 引くという選択肢は存在していて……これまでは無理を通していただけで、本来これは通しちゃいけない事なんだと思う。

 腹部を刃物で刺されて出血多量。骨も何本も折れている。どう考えたって最低でも止血くらいはしないといけない。


「……分かった、一旦引こう」


『はい、動けますか?』


「ああ、大丈夫だ。動くだけならもっと酷い怪我で戦ってきたからな」


 ともあれ……危なかった。エルに言われてなければこのまま戦闘を続行する所だった。

 ……とにかく後方支援の連中の所まで行って治療を受ける。ある程度回復したら復帰だ。あの出力の相手がいる上、件の銃の男もレベッカに任せている状態だ。あまり休んではいられない。

  そう思って動きだそうとした、その時だった。


「……ッ」


 足が縺れてその場に倒れる。


『大丈夫ですか!?』


「ああ、大丈夫だ。なんてことな……」


 ただ転んだだけだから大丈夫だと、そういう意図をエルに伝えようとした言葉が止まった。


『……エイジさん?』


「……」


 視界が霞んでいた。

 加えて徐々に感じた事の無い類の倦怠感が全身を包んで、指先が震える。


「……」


 それでもなんとか立ち上がろうとした。

 ああ、そうだ。なんとか立ち上がろうとしなければ、立ち上がる事すらできなくなっていた。


 ……この程度の怪我でだ。


「……ッ」


 そしてフラつきそのまま木にもたれかかる。

 ……なんだこれ。まともに体が動かね――。


「ごふ……ッ」


 そこまで考えた所で口から血反吐を吐きだした。

 そしてその頃には全身を寒気が纏わりつくようになっていた。


『エイジさん……もしかしてッ!』


 エルがそう声を上げて、刀の形態から元に戻る。

 そしてまともに動けなくなっている俺をすぐさま背負い上げ、周囲に警戒を向けながら後退を始める。


「エイジさん、とにかく急いで戻ります。捕まる力があったらしっかり捕まってください」


 ……だがその力すらもあまり出てこない。なんとかエルにしがみ付くが、自分の体どは思えない程にそれは弱々しい。


「……んだよこれ」


「多分毒です」


「……毒?」


「多分さっき刺してきた人間がそういう精霊術を使ってたんです。とにかく早く治療しないと!」


 ……毒。そういえば以前にも喰らった事があった。

 アルダリアスの裏路地で麻痺毒を喰らった。シオンに助けられていなければ終わっていたあの時。

 確かあの時シオンは即効性の麻痺毒と言っていたか。

 だけど今の俺の状態はあの時の毒とは訳が違う。

 ……うまくは言えないけれど、体の内側から生命力を奪われる様な。そんな感覚に陥っていた。

 ……正直体の自由が効かないだけではない。意識を保つ事すら難しい程に。体が感じた事の無い程の速度で衰弱していっている事が分かる。


「とにかく今は耐えてください! 向こうに戻れば毒を治療できる精霊術を使える精霊がいる筈です!」


「……ああ」


 ……とにかく今の俺にできる事は、意識を途切れさせない事位だった。

 そんな状態で俺達は一時後退する。


 再び血反吐を吐きながら。

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