第30話【エピローグ】
【エピローグ】
今回もまた、最初に復旧したのは聴覚だった。
佐山、佐山と、俺の名を呼ぶ彼女の声がする。
ん? 彼女? そうか、これは俺がよく見知っている人間の声だ。俺はその声に応じるべく、喉を鳴らした。
「は……づき……?」
俺の周囲は未だに真っ暗で、大方の感覚器官はまだその役割を果たしていない。それでも、葉月の声はよく聞こえてきた。暗い湖面から、ふっと明るい光球が浮かび上がってくるかのように。
そうか。俺は死んだのだ。そして葉月の声がするということは、きっと葉月も死んでしまったということなのだろう。全く親父の奴、お袋やら俺だけでは物足りず、葉月をも殺してしまいやがった。
だが、次に復旧した嗅覚は、意外なほど鮮明な刺激を俺に与えた。
薬品。清潔な布。それに混じって、微かに花の香りがする。
芋づる式に、触覚が戻ってきた。俺はどうやら寝そべっているらしい。なかなか寝心地のいいベッドのようだ。ベッドがあるということは、もしかして。
「俺、生きてるのか……?」
そう呟いた、というより口を動かしてみたところ、今度こそ聴覚は完全復旧した。
「ドク! 潤一が目を覚ましました!」
「ジュン、大丈夫かい?」
憲明に和也。そして近くにいるのであろう、ドクの存在。
ここに至って、俺はようやく瞼を開いた。真っ先に目に入ったのは、ベッドに両手をつき、こちらに身を乗り出している葉月の姿だった。
「葉月……なのか」
「ああ、私だ。美奈川葉月だ。佐山、大丈夫か?」
これまた以前のように、俺は自分で自分の全身の調子を確かめた。骨に異常はなし。筋肉はやや引き攣る部分もあるが、痛みは伴っていない。手の指先を動かしてみたが、行動に支障はないようだ。
「ここは、一体」
『どこだ』と問おうとしたところ、葉月が頭を引っ込めた。代わりに葉月とは反対側から、細身で禿頭の老人が顔を出した。ドクだ。俺と目を合わせながら、右手をそっと握り込む。
「潤一くん、今から感覚器官のテストをする。肯定の意志表示をする時は、私の手を握ってくれ」
全身の感覚はあるか? ――握る。
痛みはあるか? ――脱力する。
私の声はよく聞こえるか? ――握る。
「そうか、分かった。葉月くん、彼に水を」
「はい」
するとすぐに、口元にストローが当てられた。どうやら、高齢者支援用の特殊な容器らしい。いくら傾けても、蓋から水が漏れてくる気配はない。
俺は、まず唇を湿らせてから、ストローの先端を口に含んで喉から胃袋に押し込んだ。
しかし、すぐにストローが奇妙な振動を始めた。何だ?
水の入った容器を握っている、葉月の手を視界に入れる。だんだん距離感が掴めてくると、葉月の手が震えているのが分かった。
「葉月?」
いくらか安定してきた声音で、俺は彼女の名を呼んでみる。すると、カタン、と軽い音を立てて、カップが床に落ちた。
「どうし、たんだ、葉月?」
ゆっくり言葉を繋ぐ。顔を傾けると、葉月は両手で顔面を覆っていた。すぐに嗚咽を漏らし始める。
って、待てよ。
「葉月!」
俺は点滴が為されていることを無視して、勢いよく上半身を跳ね上げた。
「葉月、無事か? 撃たれたんだろう? 生きてるのか?」
今更愚問である。が、そのお陰で、俺の全身は一気に再起動した。
葉月は何度も目元を拭いながら、こくこくと頷いた。
周囲を見渡す。病室のようだが、ドクがいるということは、きっと情報統括部、すなわち寺の一部屋なのだろう。
ぎょっと身を引いたのは和也だった。何をそんなに驚くことがあるのかと思ったが、すぐに納得した。俺はしばらく、意識を失っていたのだ。そんな俺がこうも突然動き出したら、誰だって驚くだろう。
そう思うと同時に、俺は自分の、意識を失う直前のことを思い返した。
気絶にまで追い込んだ親父は、何者かに狙撃されて死亡した。その後、しばしの間、銃撃戦が行われた。
「和也、一体何がどうなってるんだ?」
「え、えっと、ジュンはお父さんと戦って、それから、その」
要領を得ない和也の説明をもどかしく思っていると、いつの間に抜け出していたのか、憲明がスマホを片手に病室に戻ってきた。ドクはその様子を、一歩引いたところから見つめている。
その隣にはエレナの姿があり、葉月に負けず劣らず泣きじゃくっていた。
「潤一、これを見ろ」
俺は憲明からスマホを受け取り、停止画面になっていた動画を再生した。これは、アジトの取調室だ。テーブルを挟んで左側に憲明、右側に見知らぬ男がいる。だが、悪人であるということはすぐに察しがついた。手足を椅子に縛りつけられているのだ。
すると、憲明がずいっと身を乗り出し、男を睨みつけた。
《てめえ、何で上司である佐山博士を撃った?》
待てよ。『撃った』だって? しかもこの男は、親父の部下だという。
もう少し話を聞いてみよう。
《そ、それは、佐山博士の研究に協力している以上、保身のために……》
《どういう意味だ?》
間髪入れずに、憲明が問う。
《佐山博士の研究は、明らかに国際法違反だ。わ、我々は博士と共に警察に捕まりたくはなかったし、世界中のスパイから狙われる事態も避けたかった。だから口封じのために、博士を……》
なるほど。それで親父を殺し、自分は無関係だということにしたかったのか。ということは、親父の頭が吹っ飛ばしたのはこいつか。
だが、二、三の疑問がある。俺はスマホをタッチして動画を一時停止し、憲明と和也を交互に見た。
「この男、憲明と和也が捕まえたのか?」
「そうだ」
いつものように腕を組み、憲明が答える。
「じゃあ、親父が死んだ後に起こった銃撃戦は?」
「あれは、博士の部下たちと僕たちとの戦闘だよ」
そう答えたのは和也。
「えっ? でも、チームは解散になって――」
「ドクはそう言ったがな」
憲明は腕を解き、腰に当てた。
「それでも、俺はお前の親父さんみてえな、ああいう手合いは気に食わないんでな。遠くから援護させてもらったぞ。お前と親父さんが戦っている間は、速すぎて誰も援護射撃できなかったが」
「そ、そうなのか」
交互に補足し合うように、再び和也が口を開く。
「監視していたら、ジュンとお父さんが戦ってる現場に武装した人間が現れたんだ。合計四人、だったかな。そいつらが、ジュンのお父さんを殺したから、今度はジュンが殺されるかもしれないと思って、僕とノリが援護した、ってわけ」
それが、あの銃撃戦の音だったわけだ。
「潤一、今動画に映ってるのは、俺たちとの戦闘で生き残った唯一の敵だ。吐かせた情報は、ざっとこんなもんだな」
この『情報』とは、きっと『自分が佐山博士を殺しました』という証言のことだろう。
俺がスマホに目を下ろし、動画を再生させると、憲明が『証言ご苦労』と告げた。そのまま拳銃を取り出し、親父の部下をその場で射殺する。動画はここまでだ。
「ん……」
俺は一抹の後味の悪さを感じつつ、スマホを憲明に返した。
ちょうどその時、部屋のドアが開いた。エレナとドクが、安堵の表情を浮かべながら入室してくる。
「潤一くん、どうやら身体に不具合はないようだね」
「あっ、は、はい」
「君は三日間眠っていたんだ。空腹感はあるかね?」
「えっと」
俺が自分で腹部に掌を当ててみる。すると、何とも情けない虫の音がキュルキュルと鳴った。
「我々は夕食にする。潤一くんも来るといい。君の好物を、エレナくんが用意してくれた」
俺の好物? そんなこと、しばらく考えたことはなかったな。
俺が首を捻っていると、ドクが俺の腕から点滴の針を抜きながら言った。
「さあ皆、畳の間に集まってくれ。ひとまずの作戦終了と、潤一くんの意識回復を祝して、今日は食べるぞ。もちろん、葉月くんが一命を取り留めたことも祝わなければならないな」
この期に及んで、ようやく葉月は涙を拭いきり、微かに笑顔を見せた。
※
歩くのにも座るのにも、当然食べるのにも支障はなかった。RCが働いたお陰で、親父の電撃攻撃によるダメージが大幅に軽減されたお陰らしい。
俺はドクの助言に従い、ゆっくりと料理を咀嚼した。海鮮丼やらステーキやらが、テーブルに所狭しと並べられている。そして、次々に皆の胃袋に消えていく。
俺の意識の回復が、そんなにめでたいことだったとは。
俺は無理しない程度に、しかし我ながらがっつり食べた。
「やっぱりエレナの料理は一級品だな」
そう告げると、エレナは僅かに頬を染めて俯いた。
腹八分目を過ぎたあたりで、俺は箸を置き、席を立って、寺の中を通って裏庭に出た。
確かに、皆に回復を祝ってもらえたことは嬉しい。とても。だが、今の俺は、もう少し物事を考えたかった。独りになりたかったのだ。
そんな俺の心情を察してくれたのか、誰も俺を呼び留めはしなかった。
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