26.桐生診療所
早池峰家から僅か五分の所に、桐生診療所は建っている。狗鬼狂である桐生の診療所だ。柔和な物腰と人当たりのいい性格から、近隣の住人からの信頼は厚く、小ぎれいな建物に利用者も多いらしい。
哭士からすれば、桐生は自分を含む狗鬼を興味の対象とし、隙あらば調べつくそうとしてくる気の許せぬ人物であり、その人物が経営している病院であるからして、あまり近づきたくないというのが本音であったのだが。
今は、祖父の修造が莉子の襲撃で負傷し、収容されているのだという。
真っ白な廊下をマキの案内で進み、促されるまま病室まで歩いている。診療所内に入ってからも、哭士は違和感を覚える。祖父の、あの恐ろしい圧力を感じないのだ。
今まで哭士が感じていた祖父に対する畏怖の感情は、莉子が持っていたあの石が原因だったと見て間違いは無いらしい。そうなれば、石を取り除かれた祖父から恐怖を感じる事も無くなるわけである。
こんな時、如何すればいいのだろう。生まれて十七年間、祖父に対して、恐怖、畏怖、それ以外の感情を持ち合わせたことは無い。気持ちの整理が付かないまま、前を歩いているマキが、ある病室の扉の前で立ち止まった。
「旦那様、哭士さんが到着しました」
マキが入り口から、奥へと呼びかける。
「……哭士」
自分を呼ぶ弱弱しい老人の声に、歩みを止めた。この声は本当に自分の祖父か。やはり、今まで自身に降りかかっていた威圧感が微塵も感じられない。
聞いた事のない、その声の調子に、僅かながら哭士は狼狽する。
マキは病室の入り口で止まり、哭士を病室の奥へ進むよう手で促した。
病室に響く、自身のスリッパの音がやけに大きい。
ベッドに近づくにつれ、視界に入ってくる修造の姿。修造の顔が見えたときに、哭士は声を失った。
「……」
病室のベッドには、小さく、弱弱しい老人が一人居るだけだった。今まで自分があれほど大きく見え、怖がっていた『
「すまなかったな、哭士。 ……マキ、外してくれぬか」
瞠目し、身じろぎをしない哭士を見た後、修造はマキへと声をかけた。
修造は莉子に襲われた左肩に包帯を巻き、上半身を起こしている状態だった。
マキが去った後、哭士は修造のベッドの脇まで辿り着き、見下ろした。
「何故、俺の狗石を隠していた……?」
祖父の体内に哭士の狗石があった事で、十七年間、今まで哭士は祖父に怯え続けていたのだ。何故祖父が自分の狗石をそこまで隠していたのか、哭士は不思議でならなかった。
問われた老人は、一瞬遠い目をしてから、大きく息を吐き出した。
「お主に、話しておかなければならぬ。儂の体内にお前の石を埋め込んでいた事。まずはお主の母親、早池峰 さくらの死について話さねばならん……酷な話かもしれぬ。心して聞け」
修造は、ここで言葉を一度切り、ゆっくりと話し始めた。
「十七年前の事だった、お主を身ごもっていたさくらは、予定より二週間も早く産気づきおった。その日は桐生も診療所にはおらず、街から呼ぶ医者も、その日の大雨で我が屋敷に来る事は出来なかった」
「……」
初めて聞く、自分の母の話に、哭士は黙って祖父の声に耳を傾ける。
「屋敷には、さくら、夫の宗一郎、看護師の経験がある使用人の女と、そして、烏沼 克彦がおった」
そう、克彦は、哭士が生まれたその場に、居合わせているのである。
「使用人の女と、宗一郎の立会いで、さくらは医者の手助け無しでお前を産んだ。使用人の女の知らせを受け、さくらの元に行こうとした時、奴の……克彦の叫び声が聞こえてきた」
哭士もその先は、克彦本人から何度も聞いている。容易に想像が出来た。
「部屋内は、すべて氷に覆われておったよ。克彦は左頬に傷を負い、気を失っていた。部屋の中心には、氷像と化したさくらと宗一郎、そしてさくらの腕の中で産声を上げているお主だった。さくらの傍らには、お主が握っているはずの石、狗石が転がり落ちていた」
ここで修造は、大きく息を吐き出した。
「生まれたばかりの狗鬼は、力の
「まさか、あの男が」
現場に倒れていたという、烏沼 克彦。自分の狗石を狙ったのだと哭士は思った。
「その可能性は大きい。だが、今となっては真実を知る者は克彦一人。奴が口を開くとも思えぬ」
修造はゆっくりと首を振った。
「狗石という制御を失ったお主の能力は、まずはさくらと宗一郎に襲い掛かった。そして部屋内に居た克彦を飲み込み、そして氷の刃物が儂の肩を貫いた。そう、まさにこの部分だ」
修造は、包帯が巻かれている自らの肩を指し示した。
哭士は身じろぎもせずに、修造を見つめている。
「儂は狗石を拾い、静まるようにお主に命じた。やはり狗石の力は絶大だった。部屋内の吹雪は止み、儂とお主、そして克彦だけが残された。その時だ、克彦の意識が戻ろうとしておった」
哭士は、話の先の答えを見つけ、ゆっくりと頷いた。
「大事な孫の狗石を、奴にだけは渡すわけに行かなかった。絶対に見つからない場所にその石を隠す必要があった。……時間が無かったのだ」
こうして祖父は、肩の傷に哭士の石を埋め込み、克彦から哭士の石を守っていたのだ。あの恐ろしい祖父は、皮肉にも孫を思った行動から生まれてしまったのだ。孫を守ろうと、狗石を自らの体内に埋め込んだ事で、十七年の間その孫から畏怖のまなざしを向けられていたのだ。
どれほど侘しかったろう、哭士には量ることができなかった。
「哭士、石を取り返せ。主の力を他の者に渡してはならぬ」
あれほど恐ろしかった祖父の命令。だが、今は目を見てしっかり受け止める事が出来た。
「……ああ」
哭士は、祖父の言葉に、大きく頷いた。その様子に、修造は目を細めた。
「……狗石を持った儂に、お主は怯えの表情しか見せなかった。だが、幼い頃のお主は必死に怯えを隠し、唯一の肉親である儂に必死に歩み寄ろうとしているのが分かった。それが……辛かった。優しい言葉をかければかけるほど、お主が苦しんでいる。ならば、狗石が示すとおりの『祖父』になろうと……、敢えてお主に辛く当たり……。すまない、すまなかった」
弱弱しく頭を下げる修造。
修造の口から語られる真実。哭士には、返す言葉が見つからない。
「……別に、恨んでなんかいない。仕方が無かったんだろう」
ひとつ、息を飲み込んで、
「あぁ、やはりお前は、さくらに似ておる……」
言い終わると同時に、意識を落とす修造。
「祖父様!」
哭士は祖父の体を支える。
「薬が効き始めたようです」
いつの間にか病室の入り口に立っていた桐生。後ろには菊塵も立っている。
「哭士、明日本家に行くのなら、一旦屋敷に戻ろう。お前は少し休んだ方が良い」
早池峰家に戻ろうと促す菊塵。
「……いや、俺はいい」
修造を支え、奥歯を噛みしめている哭士の表情を菊塵は読み取った。
「……そうか。じゃあ明日、僕が車で本家まで送っていく。お前は祖父様に付き添っていてくれ」
菊塵の言葉に哭士は一度だけ頷く。桐生は祖父の様子を見、安静にすれば問題ないことを告げ、菊塵と共に病室を後にした。
※
桐生が菊塵に口を開く。
「良かったのかい? 本家に行かせるのなら、それなりの心積もりをさせておかないといけないんじゃ? 本家の事だよ。あれやこれやと、君達革新派について探られるんじゃないの?」
「……いいや、哭士は狗鬼についても殆ど知識は無いし、派閥抗争については殆ど伝えていない。今更本家のしきたりやらなにやらを詰め込んだって、どうせボロが出る。穏便に話をつけて来い……なんて事も、無理でしょうね。交渉事に関しては不器用ですし。今のままの状態で行った方が、相手方に与える情報を最小限に抑えられる」
「はは、酷いなあ、哭士君が聞いたら怒るよ。ま、今日は色々あったみたいだし、整理する時間が必要かもしれないねぇ」
「ええ、哭士は今、初めて本当の意味での『肉親』を手に入れたんですから。こんな時くらい、一人にしてやった方が良いでしょう。ところで、ユーリの籠女は?」
「あぁ、連絡取ったんだけどね、忙しいんだって。酷いよねぇ。仕方ないから、僕がストックしてあった籠女の血で応急処置。契約相手以外の籠女の血は、治癒能力が低くて本当はオススメしないんだけどね。今は別室に放り込んでるよ。最初からそうしろーなんて騒いでてねぇ。口だけは元気なんだよねぇ」
困ったような表情を浮かべた桐生。病室内でも騒いでいるユーリが目に浮かぶ。
菊塵は、哭士を頼みます、と桐生に告げ、診療所を後にした。
※
哭士は黙って祖父の顔を見つめていた。静かな寝息を立て始めた老人の様子に、哭士は椅子を引き、壁に背もたれた。
「……」
祖父と同じ空間に居て、これほど平常心を保っていられる日が来るとは思っていなかった。
この一晩、哭士は祖父を守るように一時も傍を離れなかった。
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