第29話 イネルス(1)
生まれた時から弱者だった。
母親は名も知らない。おそらく、娼婦か何かだろう。
父親は下級の兵士だったらしいが、まだイネルスが物心つく前に戦争で死んでいる。
まあ、どうでもよいことだ。どのみち、自分にクソみたいな質料の身体しか残さなかった二人である。考える価値もないゴミだ。
ともかく、イネルスという存在は生まれ、実存に投げ出された。
それだけが事実だ。
優生主義の天使族において、イネルスの存在価値は無に等しい。
いくら努力を積んで色を手に入れようと、質料の限られたイネルスが発動できる魔法は弱い。育てる価値はない。使い捨ての雑兵にもならない。
そんなイネルスに残された将来の選択肢は、三つほどしかなかった。
一つは、実質的な奴隷階層である従者。
二つ目は娼婦。
三つ目が、暗部である。
イネルスは迷わず三つ目を選んだ。
消去法である。
暗部とは、謀略を得意とする冒涜者に対抗するために作られた情報機関で、天使族の中では比較的歴史の浅い職業である。
圧倒的な力を以って、正々堂々敵を叩き潰すことを善しとする天使族の中において、暗部はやはり賤業であったが、それでも、情報が集まるところには権力が集まる。
上にいくことができれば、名誉は手に入らないが、従者や娼婦よりはマシな生活が手に入るはずだった。
努力をした。
天使族に生まれながら、羽も持たない下等な冒涜者の真似事をさせられる屈辱に耐え、色々な技術を磨いた。
幸い、自分のねじ曲がった性根は冒涜者が得意とする卑怯事を学ぶのに都合がよかったようだ。
指定の教育期間を終えるまでには、同輩の中でも三本の指に入るほどの実力を認められていた。
危険はあるだろう。
ものになる確率は低いだろう。
それでも、わずかながら、あの時は、確かに未来に希望というものを抱いていたように思う。
それが崩れたのは、全てあの、世間知らずのカタハネのせいだ。
ある日突然、従者への変装を命じられ、他の暗部と一緒に、無造作に集められた箱入り娘の箱部屋で。
たくさんの同輩の中から、ラブラはイネルスを選びやがったのだ。
理由は分からない。
イネルスが、他の女よりも背が低く、発育不良気味のラブラが親近感を覚えたからか。
それとも、同輩の中でも殊更弱いイネルスの質料を本能的に感じ取り、与しやすいと思ったのか。
ともかく、当時は今と違って引っ込み思案だったあのお嬢様が、指をくわえながらぎゅっとイネルスのスカートの裾を握った瞬間に、イネルスの将来は決定してしまった。
『危険のない後方でお嬢様の世話だけをしていればよいのだから、気楽なものじゃないか』
中には、そう羨ましがる者もいたが、イネルスは納得できなかった。
上は暗部としての任務だというが、従者の仕事をするならそれはやはり従者である。
媚びるのが仕事ならば、それは娼婦である。
イネルスは、誰かに与えられるのではなく、自分の力でこの世に生まれてきた価値を証明したかった。
だから、上から、新しい任務を与えられた時も、躊躇はなかった。
冒涜者の仕業に見せかけて邪魔者であるラブラを消すと同時に、開戦の口実を作る。
そうすれば、再び訓練を受け直し、報酬として最高の色を与えられ、前線に復帰できるというのだから。
罪悪感はなかった。
天使族全体のために必要とあらば、親でも殺すのが暗部である。
しかも、今回は、そもそも、ラブラがカタハネであるという身の程をわきまえ、次代を育む道具になることを受け入れていれば、回避できたはずのものであった。
いわば自業自得である。
イネルスには今回の任務が、偉大なる独立王アニマが、ラブラのせいで失われた未来を取り戻すために自分に与えた、千載一遇のチャンスにすら思えた。
なのに――
(クソがっ! クソがっ! クソがっ!)
想定外はいくつもあった。
まず、冒涜者側からの情報提供が十分でなかった。イネルスはフレドとシズについて、『ヘタレのクソ野郎』としか聞いておらず、実際、反乱者の処分という捨て石じみた任務を押し付けられるくらいだから、とんだ無能な冒涜者がやってくるものだと思っていたら、現実はその逆だった。二人の冒涜者は、手練れも手練れであり、一切の隙がなく、基本的にこちらが付け入って工作を仕込む暇はなかった。
さらに、こともあろうにラブラは冒涜者に好意を抱き、向こうも、本当に冒涜者か信じられなくなるほど、こちらに対して紳士的だったため、仲違いさせ、冒涜者にラブラを殺させる方法も使いづらい。
冒涜者が、『一匹で一○○○人は軽く殺せる』と偉そうにのたまった貪沼は役に立たず、事故に見せかけて殺そうとしたラブラはしぶとく生き残った。それどころか、貪沼は忌々しい冒涜者たちに瞬殺され、むしろ、ラブラと奴らの絆を深めることに利用されてしまう始末。
ついには邪魔者四人をまとめて始末できる千載一遇のチャンスを教えてやったにも関わらず、上が用意した兵は、装備こそそこそこだが、質は二流の雑魚だった。
最後の最後で機転を利かせて一発かますことはできたものの――
(ちっ。上手い事、奴らが差し違えてくれればいいが、消耗してくれるだけでも御の字か)
ともすれば霧散しそうな意識をつなぎとめながら、気体になったイネルスは死の山を下る。
だが、自分に都合よく物事が運ぶと思っているラブラほど、イネルスは楽観的な性格ではない。むしろ、どちらかといえば運が悪い方である自覚はあった。
早い所開戦派の友軍と合流し、とどめを刺す必要がある。
やがて、薬の効果が切れ、実相を取り戻す肉体。
戒めのように窮屈な従者用の服が、身体を締め付ける。
(ああ。息苦しい!)
ボタンを引きちぎるように胸元を開け、太ももに仕込んでいた小型ナイフでスカートにスリット入れた。
これで少しは動きやすくなった。
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