律儀な男、新井さん。
「1回表、北関東ビクトリーズの攻撃は、1番、指名打者、新井」
横浜ベイエトワールズとの2軍戦。横浜さんの2軍本拠地は湘南なのだが、1軍は遠征中で横浜のスタジアムでの試合。
スタンドやフェンス、バックスクリーンも青々としていてピッチャーの投げるボールが非常に見やすい印象がある。
「いよっ!!新井、行けよ!!」
ピッチャーの投球練習が終わり、アナウンスされた瞬間。バックネット裏のスタンドから野太いおっさんの声が響いた。
ビジターなのに、俺に声援を送るおじさん。
いよっ!! 待ってました! みたいな。
気になってチラッと見てみたが、やっぱり全然知らんおっさんだ。白いポロTにくたびれたキャップを被って、前のめりになって俺を見つめている。
可愛い女の子ならまだしも、50過ぎくらいの汗だくのおっさんに、いよっ!って言われてもなあ……。
しかし、1回表、先頭打者として入るまっさらなグラウンドと打席はなんだか新鮮だ。
「よろしくね、お手柔らかにね」
2軍でも、相手キャッチャーと球審様にちゃんと挨拶を忘れない。
まだ誰の足跡も付いていない、白線くっきり。きれいにならされたバッターボックス。
なんか、ナイロン製の細い紐が落ちているけど。なにかを縛っていたようなゴミが落ちてますけど。
それをちゃんと拾ってポケットにしまう律儀な俺は、1番キャッチャー寄り、ギリギリのところで足場を固めてバットを構える。
「プレイ!!」
ビュンッ!!
ギュルル!!
バシィッ!!
「ストライーク!」
あれ? 速いな。
外よりのストレートでコースは甘かったのだが、すんごくボールが速く感じた。
しっかり練習してきたとはいえ、2週間実戦から離れていると、やはりそういう感覚になるのか。
バックスクリーンの表示は136キロ。それほど速いボールではない。しかし、10キロ増しに見えるくらいに今のストレートがものすごく速く感じた。
やべえなあ。しばらく実戦から離れたりしたら、体や気持ち、勘などを取り戻すのは大変だと思っていたけど、1番大変なのは目を慣らすことかもしれない。
ある程度はそれも想定して、バットを振れない間なども、2軍練習場のブルペンに入っては、キャッチャーの防具を借りて、投球練習する若手ピッチャーのボールを打席に立って見たりはしていたのだが。
相手も同じ2軍の選手とはいえ、試合で気持ちが入った時に投げるボールはやはり別物。
相手が1軍で少々の結果を残している俺だから力も入るのだろうけど、生きた球というのはただの練習ではなかなか味わえないものだ。
ちょっと作戦を変更しよう。
俺はそう考えて、今度は打席の1番前。敢えて最もピッチャーが近くに見える場所でバットを構えた。
1球見たら、突然立つ位置を変えたバッター。
ホームベースに遠ざかるか、近付くか。
ピッチャーのタイプによって、横の立ち位置を変えることはまあまああるだろうが。
突然、前後に立つ位置を変えるバッターはなかなかいないだろう。
相手のキャッチャーがこれ見よがしに、サインを出そうとしながら、何を考えているのだろうかといった感じで俺の顔を見る。
しかし、変な誤解はしないで欲しい。
どうせ見るならもっと球が速く見えるようにと、打席の前に立っただけなのだから。
深い意味は全然ない。追い込まれるまでは手を出さずに、なるべく多くの球数を見てやろうと、少しでも生きたボールに目慣らししようと俺は意気込んだだけなのだ。
そんなわけで2球目。
今度はインコースよりに速いボール。
全く打つ気もないのもちょっとあれなので、ちょっと大袈裟に仰け反るようにして、あんましボールが見えてませんよ風に避けてみた。
「ボール!」
3球目。今度は低めのスライダー。次の球はストレートを投げて欲しいので、ボール球になりそうなそのスライダーを意識してました風に食い付くフリする。
地面スレスレでボールを捕球したキャッチャーが、俺のハーフスイングを見て、1塁塁審にリクエストするも、手が横に広がった。
「オッケー、ナイスボール。ナイスボール」
スイングは取れなかったが、ストライクから低めのボールゾーンにスライダーを投げたことに関して、キャッチャーがピッチャーを誉めるようにしてボールを投げ返した。
そして次の球は速いボールだった。
ヒットにするには難しい膝元のコース。ボールにしてくれたら嬉しいなあと思ったのだが……。
「ストー!……ライッ!!」
きわどいコースだから気合いが入ったのか、少し声が裏返ったストライクコール。
俺は、まあなるほどねと。今日はそこをストライクに取る日なのねと頷きながら、2ストライクとなったので、なるべくネバネバ出来るように少しだけ打席の後ろに下がった。
僅か1足分だけ。
今日は2軍戦。怪我から復帰して初打席。
こう言っちゃなんだが、今ここでヒットを打つ結果を残すのは二の次。
あと4日経った後。恐らくは呼んでもらえるだろう1軍に上がった最初の打席でヒットを打つために、今は準備をする時間である。
2ストライクと追い込まれはしたが、今やろうとすることは変わらない。
マウンドのピッチャーに協力してもらって、生きた球で目を慣らすことだ。
今日はそれに徹しよう。
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