俺は彼女の術中に嵌まっているのかもしれない。
「君、体硬いなあ! ダメだこれじゃ!」
一通り筋トレが終わり、よっしゃよっしゃ、やっと帰れるぜと油断していたら、最後のクールダウンをかねたストレッチで俺は断末魔を上げる羽目になった。
トレーニングルームであくびをしながら、今日の晩ごはんは何かなあ? ハンバーグだったらいいなあなどど、1人でのんびりとストレッチをしていると、また知らん関西弁のコーチが現れたのだ。
そして………。君、カッチカチやな! そんなんじゃすぐケガするでえ! と言われ、組んだ膝の上に足をぐいぐいと乗せられ、両腕を体の後ろに回して、それを曲がっちゃいけない方向に引っ張られたりした。
確かに小さい頃から体は固い方だった。座って前屈しても体が全然前にいかないし、立って下に向かって手を伸ばしても地面は遥かに遠かった。
「ええやん、ええやん! 柔らなってきたやん!!」
ひどい。酷すぎる。
午後5時で練習終了のはずなのに、結局5時半まで無理やりストレッチをやらされた。
サービス残業ってやつだ。
時人
今から帰るね。
みのり
分かった。
これだけのやりとりだが、これ以上ない安心感と高揚感が俺を包み込む。
その相手は隣に住む小説家の女性、山吹みのりさん。
彼女は新作の小説はプロ野球を題材にしたものらしいのだが、隣に越してきた俺に目を付けた。
毎日晩ご飯をごちそうする代わりに、ナマの野球の話を語れ! という契約を結んだ。
新人合同キャンプの時から、既に2週間ほど、帰る時間になると、毎日律儀にメッセージアプリでやりとりをするようになった。
「おかえり」
自分の部屋に荷物だけを置いて、サンダルでペタペタと歩いて、隣の部屋に住む山吹さんの部屋へ。
インターホンを鳴らすと、すぐにガチャりとドアが開かれる。
すると、白いブラウスの上から、ピンク色の可愛らしいエプロンを着た山吹さんが俺を出迎えた。
今日2軍の練習はこんな感じだったとか。
ピッチャーはこんな練習してたとか。同じポジションでも若手とベテランでやる練習が違うとか。
全体練習が終わってもみんな居残りで、打撃や守備の特訓をやるとか。
美味しい唐揚げと春雨サラダを頂きながらそんな話をする俺を、メモ帳片手に山吹さんは興味津々といった様子だ。
「ねえ、新井くん。野手の人達は守備練習でどんなことをするの?」
その日のメニュー構成にもよるが、新人や色んな球団から集めた選手が多い新チームなので、守備の連携プレーを重点的にやるんだよ。
と、教えてあげる。
キャッチボールが終わったら、内野グラウンドに入って、4つの各ベースに入ってボール回し。
左回りだったり、右回りだったり。
対角線に投げたり、前方にダッシュしてボールを受け取って短い距離に投げ返したり。
プロだからこそ。そういうキャッチボールの応用が大切なんだよと、俺は彼女に説明した。
白い大皿にこれでもかと盛られた唐揚げを全て平らげ、野球の話をずっとしながら、白飯もどんぶり5杯。炊飯器を空にしてやった。
デザートにいちごの練乳かけも頂いてしまって、俺は何度も彼女に頭を下げながら、お礼を伝えた。
「この後はなにをするの?」
食後のお茶を用意しながら、山吹さんはそう聞いてきた。
小さな湯飲みを白く細い指で包み込みながら持ち上げ、少し首をかしげながら、彼女は俺の答えを待つ。
今日はキャンプ初日で、二日酔いの上に20キロもランニングさせられ、筋トレと走り込み地獄だった今日はすぐにでも眠りたかった。
山吹さんのご飯を腹いっぱい食べたら、すぐにでも眠ってしまおうと、そう考えていた。
しかし、テーブルの向かい側で、まだ野球の話をして欲しそうな彼女の可愛らしい姿を見て、今日はバイバイ! またね! とは言いづらくなってしまったのだ。
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