第32話:不気味な視線

 まぶたを開く。カーテンの外はまだ暗い。


 入り口から橙色の明かりが届いてくる。


 左を向くと、ベッドの中身が盛り上がっていた。刊野さんは布団を被って寝るタイプらしい。


 枕の上にあるベッドの埋め込みのデジタル時計を確認すると、まだ午前の三時だった。




 悪い夢を見た。


 しかし、それで起きたのではなさそうだ。汗はかいていないし、尿意もない。


 だが、明らかな違和感があった。


 自分自身にではない。この部屋に、寝る前と変化があった。


 具体的に言えば、誰かの視線を感じるのだ。


 この世のものとは思えない、ねっとりとした、不気味さを纏った視線。テレビで有名人がよく自慢げに語っているやつだ。ロケ先で泊まったホテルで幽霊を見た、とかいう。落ち武者とか、兵隊とか、ずぶ濡れの女とか様々だが、あれは嘘っぱちではなかったのか。


 視線だけではない。かすかに絞り出したような、嘆きの声が聞こえてくる。


 ひとまず上半身を起こし、部屋を一周見渡す。


 当然のことながら、人の気配はない。それでも確かに、誰かが僕のことを見ている。


 よって消去法で、僕は両手を肩の後ろにまわした。


 案の定、感触がある。それをつかむと、一思いに前方へぶん投げた。


「うぎゃ!」


 顔面から壁に激突し、カーペットの上に倒れる。くせっ毛が鰹節のように頭上で踊っている。


「お久しぶりです」

「……やあ、シンイチくん」


 カーペットにキスしたまま尻を突き出した状態で、編集さんが片手を上げる。


「幽霊じみたことしないでくださいよ。幽霊のくせに」

「なんだよー。二人が眠るまでずっとスタンバイしてたのに」

「一体いつからいたんですか」

「ホテルに入る前からだよ。すれ違ったタクシーの中になんか見たことある顔がいるなー、って思ったら、ホントに知り合いだったからさ。ここは幽霊としてひと肌脱ごうかと」

「じゃあ早速脱げ。今すぐ脱げ。乳房を見せろ」

「うちが悪かったですごめんなさい」


 世界広しといえども幽霊の土下座を目の当たりにしたのは僕だけではないだろうか。


「で、何の用ですか」

「いやね、ありすちゃんの記事を書かせた記者と一緒だったから何事かと思ってね。脅されて連れ回されているのかと心配で見守っていたのだよ」

「大丈夫ですよ。僕は善良な一国民で、マスコミに狙われるようなことなんて何一つやってませんから」

「そっか。ならよかった」


 編集さんは下がった目じりをさらに細くした。このヒトなりに、本当に僕を心配してくれていたらしい。


「でもさ、あんまり首を突っ込まない方が良いと思うよ」

「……何がですか?」

「最近起きた殺人事件のこと調べまわってるんでしょ? 本当に連続殺人だったとしたら、シンイチくんも狙われるかもしれないよ」

「ミヤコさんから聞いたんですか?」

「そりゃ、うちもスタジオミヤコの一員だし。後輩がどんな仕事しているのかは把握しておく義務があるからね」

「小学校の運動会めぐりをしていたヒトが言いますかね」


 ちっちっちっ、と、編集さんが指を振る。


「この季節、小学校の行事は何も運動会だけじゃないんだぜ。これを見たまえ」


 首から下げた一眼レフカメラの電源を点け、自慢げに画像を表示させる。


 大部屋で小学生の女の子がまくら投げをしていた。


 カメラを受け取って、スライドショーで確認していく。


 売店の前でソフトクリームを舐めている女の子の画像。お化け屋敷で泣きべそをかいている女の子の画像。バスでトランプをしている女の子の画像。ベッドをトランポリンのようにして跳ねている女の子の画像。浴衣姿で正座して、懐石料理を食べている女の子の画像。脱衣所で下着姿になっている女の子の画像……。


「なんですか、これ」

「修学旅行に決まっているじゃない」


 ようやく僕は、ホテルの予約が取れなかったことに合点がいった。


 今の季節は秋。修学旅行シーズン真っ只中だ。主要都市や観光地はもちろん、地方はそもそもホテル自体が少ないためすぐに埋まってしまう。学校と提携していたり、一年前からワンフロア全部を押さえていたりするのだ。


 って言うかこの枚数、同行のカメラマンかよ。


 メニュー一覧から全削除のボタンに触れたところで、カメラを奪われた。だからスタジオにアルバムが多すぎていい加減邪魔なんだって。


「とにかく、気をつけなよ。帰ってきたら、他の写真も見せてあげるからさ」




 だったら別に死んでもいいやと思った。




 修学旅行がいかに宝の山であるかを明け方まで熱弁されたおかげで、結局寝不足になってしまった。目を覚ますと刊野さんは既にスーツに着替えており、メイクもばっちりだ。僕も手短に支度を済ませ、一緒に朝食バイキングを食べてからチェックアウトした。


 タクシーで向かった先は、数日前に殺された四番目の被害者(あくまで連続殺人と仮定した場合だが)、スナック経営者、鬼怒川きぬがわサキの知り合いが住む家だ。


 移動の最中、刊野さんにこんなことを尋ねられた。


「あなたの、人の心が読めるって能力のことなんだけど」

「……はい」


 さすがにジャーナリスト相手に力のことを話したのは軽率だったか。




「もしかして、宇宙人から神秘のエネルギーをもらってる、みたいな類の話?」




「……はい?」




「いや、あなた、夜中にずっと独り言をぶつぶつ言ってたのよ。覚えてないの? 『あんたの存在はこの星にとって害悪だ』とか、『完全に容量オーバーだ』とか、『このままじゃ支配される』とか。あたしは寝たふりをしていたんだけれど、正直不気味だったわ」

「……あー、たぶん寝ぼけていたんですかね、はは、ははは」


 最悪だ。




 帰ったら罰として編集さんにセクハラ三昧の刑を処すことが決定した。

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