第21話:小学生でもわかること
スタジオミヤコに戻った僕は、藤城家で起きたことのあらましを説明した。
両親に身代金を払うつもりがないということ。それどころか、僕らに藤城ありすを始末するのを暗に期待していること。
編集さんの姿はない。ミヤコさんは椅子で目を閉じたまま、僕の話を黙って聞いていた。
説明を終えると、ミヤコさんが一言つぶやいた。
「では、殺すか」
「そんな……」
殺すなんて、軽々と口にしていい言葉じゃない。そのはずだ。
「向こうに金を用意する気がないのならそうするしかあるまい? 元々私たちと藤城家の間ではそういった約束が成されていたはずだ。このまま藤城ありすを解放しては、私たちは契約違反をしたことになってしまう」
「この契約を順守することに何の意味があるんですか」
「約束は守る。小学生でもわかることだと思うがね」
「でも……」
僕はなぜこんなにも躍起になっているのだろう。御堀さんの時にここまで抗おうとはしなかった。この心の奥底の、むかむかとした気持ちは何なんだ。
怒りなんて、悔しさなんて僕にはないはずなのに。
「だったら逃げ出したことにすればいい。食事の時に手錠を外すから、僕とミヤコさんがいなくなれば、自力で脱出するかもしれません」
「その後にあの子が通報したらどうなる? 私たちは誘拐犯だ。そして人である君は法律によって裁かれる。……いや。警察や司法であれば抑えられるが、マスコミはそうもいかないだろう。スタジオミヤコがこれまで行ってきた数々の犯罪が、この国の陰謀だったということが暴かれるのだ。国民は暴動を起こし、一切の倫理観は破壊され、もはやこの国は機能しなくなるだろう。君にその責任が取れるのか?」
僕は刊野日美のことを思い浮かべる。僕を殴った藤城ありすの両親に対して隠すことなく怒りをぶつけていた。彼女は純粋に悪を憎んでいる。
僕らと刊野さんは本来敵対関係にある。それでも今はまだ敵対してはいない。互いにあいまいに濁して、かろうじて共存している。だが事件の真相を知れば、きっと僕らのことを許さないだろう。僕のことを、人として見てはくれなくなるだろう。僕の父親と母親だって、犯罪者の両親として、一億人からの非難をたった二人で浴びることになる。
向き合ったまま、僕らは互いに押し黙っていた。
体の内側で発生した気泡を、僕は透明な針で一つずつ潰していく。それでも気泡はふつふつと浮かび上がり、すぐに追いつかなくなくなる。やがて泡は隣同士で結合し、大きくなる。大きくなったそれがまた隣のそれと重なり、巨大な泡となる。一つになった泡が最後に弾けた時、僕は壊れてしまうのではないか。
どうしたらいいんだ。
苦しくない。それなのに、逃げ出したい。
悲しくない。それなのに、泣きたくなる。
怒りはない。それなのに、拳が震えだす。
やりきれない。
誰でもいい。
この救いようのない世界を、壊してくれ。
どちらからともなく視線を外し、各々の仕事に戻った。
目の前の誘拐事件も大事だが、会計処理に区切りをつけなければならなかったのもまた事実だ。ミヤコさんは相変わらず澄ました顔のまま、手伝おうとする素振りなど微塵もなく読書に戻る。
本棚から手に取ったタイトルは、『明日までにやるべきこと』。
マジック関連の本ではない。
明日まで。それがミヤコさんから提示されたタイムリミットだ。それまでに何らかの策を講じなければ、藤城ありすを殺すということ。
事務書類にペンを走らせながら、僕は考える。
誘拐事件の落としどころはどこだ。目的は、藤城ありすが誘拐中に体験した恐怖を後世に語り継ぐこと。僕らに対して恐怖と憎しみを植えつけなければならない。
すなわち、生き延びることが大前提だ。死体で見つかってしまっては、誘拐事件としての効力は半減する。
かといってわざと逃がすわけにもいかない。僕はともかく、ミヤコさんが大人しく見逃すとは思えない。あのヒトが言っていた通り、僕らの正体がばれてしまったら、この国のモラルは崩壊する。
これらの制限と条件を鑑みて、出せる答えは多くはない。僕の貧困な発想力では、折衷案は一つしか導き出すことしかできなかった。
どうやら僕にクリエイティブな仕事は向いていないらしい。会計処理のように、決められたルールと与えられた手段の中でやる方が性に合っている。金額という回答が、正しいか間違いかをはっきりと提示してくれるのだから。部分点なんかなくて、百点か零点かの二択だ。それをちゃんと突きつけてくれる。正解かどうかわからないなんてことはない。
そう考えると、目の前の作業が自然とはかどるのだった。
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