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それが世界の掟なのだと彼女は言う。
彼女の言い分ももっともだ。ただでさえ召喚者が押し寄せたこの世界には、食べ物や寝床、最低限の生活を支える物品が不足しがちだ。俺たちは最悪、物を食べる必要もなければこちらで寝る必要もない。そしてなによりも、全ての召喚者が魔物に対して敵対している。何度も蘇る命が、無条件で自分たちと同じ相手を敵として認識している。これがなによりの理由付けとなり、各国は俺たちに物資の売買を許可してくれている。要するに、危ういギブアンドテイクの関係で成り立っているというわけだ。
けれど魔堕ちは違う。
なけなしの食べ物や寝床を提供した人間が、ある日、唐突に魔王の配下へと身を転じる。
それまで当人にかけていたリスクはすべて無に帰し、リターンもゼロというわけだ。いや、むしろ敵対関係を作られる可能性の方が高いのだから、マイナスと言ってもいいだろう。
世界の背景を知れば、リズレッドたちが何故ここまで魔堕ちを恨むのかも理解できる。
理解はできる。だけど――
「さっき言ってたよな。魔堕ちは、例外なく理性がなくなるって」
「……!」
リズレッドがはっと息をのんだ。
「いま、この子は言葉を話した。リズレッドに話しかけた。意思疎通ができるんだ。理性がないとは到底思えない」
「それは……確かに……だが……」
目の前で魔堕ちたる確固たる根拠と、魔堕ちならざる証拠を同時に提示されて、リズレッドは困惑の表情を隠すこともできず、ありありと浮かべた。
この世界の人が、どんな理由で、どれだけ魔堕ちを憎むのか。部外者ながらも少しくらいはわかるつもりだ。けれど決定的にこの少女がそうであると結論付けられない限り、命を奪うような真似はしたくない。この翠髪の少女のためにも、リズレッドのためにも。そして……。
脳裏にちらつくのは、断罪の炎に消えた、あの男の姿だった。
だがそこでもうひとつ、いま自分が放った言葉にひっかかりを覚えた。
……翠髪?
「わたしは、特別だって言われた」
だしぬけに少女が口を開いた。
「わたしと一緒に変えられたみんなは、すぐにみんなじゃなくなっちゃったから……だから、逃げた」
それまで沈黙していた少女が、堪えきれなくなったように口を開いた。
「みんな? 君の他にも、仲間がいたのか?」
「……うん」
うなずくと、少女は小さな指で一点を指した。
「あの人も、いっしょに捕まったの」
彼女が指し示すのは、さっき光となって消えた、爬虫類のような魔堕ちが霧散した場所だった。
その言葉でひとつの真実が浮き彫りとなり、ぐらりと立ち眩むようなめまいに襲われた。
「あいつは……自分の意思で魔落ちになったんじゃないのか。誰かに強制されて、あんな姿になって、理性も消えて。そして――」
「ラビ、それ以上考えるのはよせ。君が手にかけたわけじゃない。剣を下したのは私だ」
「同じだ……俺がやろうと、リズレッドがやろうと」
「……実はな、よくあることなんだ。狂信者が信者に無理やり儀式を行ったり、誰かに騙されて魔堕ちへと転じるということは」
「なっ……」
「けれどそれで決断をためらえば、民が死ぬのだ。守るべき人々が。……迷うなとは言わない。私も、迷ったから」
「……リズレッド」
「あえてはっきりと言おう。この魔堕ちは処分する。君がなんと言おうとだ。優しさがとりかえしのつかない後悔に変わる前に、泥をかぶるのも師の役目だからな」
「……」
リズレッドの優しさは痛いほどに伝わってきた。彼女自身も、簡単に命を奪うことを是としてはいない。だからこそ、その役目を自分でかぶろうとしている。
けれど俺は、その優しさを受け入れるほど強くはなかった。
「悪いリズレッド、それでも俺はこの子を見殺しにはできない。まだ理性が残っているうちになら、なにか救う手段があるかもしれない。それに……人の命を奪うのは、もう……」
「英雄は、人を殺さなくてはいけない」
「え?」
「昔、エド隊長から教わった言葉だ。誰かを助けたいと願うものは、他の誰かを殺す覚悟が必要だとな。幼い頃の私は、人どころか魔物にすら情を覚え、ろくに剣を振るうこともできなかった。……正直、この言葉の全てが正しいとは思っていない。けれどいまは、そうすべきだと思う」
「俺は英雄じゃない」
「私もだ」
にわかに互いの間に緊張が走り始めた。
こういうことは、いままで何度もあった。俺が愚行を犯して、それをリズレッドが戒めるという場面が。
けど今回は違う。ひとりの少女の命がかかってるんだ。絶対に引くわけにはいかなかった。
リズレッドと向き合い、どちらも主張を曲げじと視線を向け会った。
視界の端に、アミュレが困ったような表情で俺たちを見つめているのが映った。
そしてもう一人、今回から新たに仲間に加わった血濡れの姉妹の妹、弔花は、
「……魔堕ちになるときって、どんな感覚なの……?」
ひざを折って、面と向かって少女に冗談とも本気ともつかない質問をしていた。
「「「……!?」」」
一同の目が一斉に彼女に向けられた。
「弔花さん、なんて質問してるんですか!?」
「この空気でそんなこと訊くか!?」
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