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『血迷ったか』
自らを攻撃してきた黒髪の剣士へ向けて、雄牛の化物は告げる。
当人は機敏な動きですでに至近距離から離脱。斬撃を加えたあと腕を土台代わりにして跳躍し、攻撃可能範囲から外れた場所で着地した。
訊かれた剣士――鏡花は、着地した姿勢からゆっくりと腰を下ろしながらミノタウロスに言った。
「……血迷ってなどいませんわ」
その右脇に抱えた、白いフードを纏った少女を床へと寝かせる。
ミノタウロスは目を見張る。あの一瞬。虚をついて斬撃を加えた瞬間、緊張した手の中からあれを奪取していたのだ。
『いまさらそちらの世界で自分が生きていけるとでも? 儂らは生まれたときからこうだ。こういう人種なのだ。それを知っているから、お前はこちら側に付いたのだろう』
「ええ、そうですわ。私は他人の物を奪って生きてきた人間。いまさら彼らの世界に馴染めるとは思っていません」
床に寝かせたアミュレの乱れた前髪を、撫でるように綺麗に整えてから、鏡花は立ち上がった。
そしてそのまま、一直線にミノタウロスへと視線を向ける。人の悪意の塊であり、己自身の過去の映し鏡である、悪に染まった元人間の成れの果てを。
「――だからこそ、リズレッドが私を助けるために身を呈するというのなら、それも有り難く頂戴しなければなりません。食の選り好みなど、生まれたときからさせてもらえなかったですもの」
語る言葉とは裏腹に、彼女の表情は穏やかだった。
答えなどまだ出せてはいないが、それでも暫定の進むべき道をようやく見つけられたような。
袋小路だと思っていた通路の果てに、自分自身で新たな道を作り出せる余地を見つけたような、どこか憑き物が落ちた面持ちだった。
『そうか……』
ミノタウロスはそれを聞くと、ただ一言そう言って俯いた。
腕がぶるぶると震えている。大きな拳が、いまにも怒りのあまり砕け散りそうなほどに握られている。
『結局……お前は、その程度の覚悟で儂らと同行したということか!』
一転、天を仰ぐように大きく頭上を見上げながら腕を左右に広げた。
『儂が、どれだけこの狭苦しく、カビく、暗い牢獄で過ごしてきたかわかるか! 神を恨まなかった日など一日たりともないというのに、神の加護の守り手としてここに束縛し続けられた屈辱がわかるか! レオナスとお前は、そんなときに現れた唯一の同士だった。絆や信頼などよりも、裏切りと略奪を是として、無限の向上心を持ち合わせる仲間に、数千年の時を超えてようやく出会えたと思っていた!』
まるでここより天上にあるもの全てに呪いをかけるような声と眼差しで、化物は叫んだ。
やがて、ゆっくりと視線を前へ――鏡花へと戻した化物は、失望したような様相へと変わった。
『――だが、蓋を開けてみればどうだ。土壇場で怖気付き、その場で思いついた言い訳を、さも人生の答えかのように己を錯覚させて、あろうことか我が野望の前に立ちはだかりおった』
「……」
『なにも言えんだろう。当たり前だ。お前は下らない人間の光に呼び寄せられた、取るに足らない虫だ。儂やレオナスのように、羽化して成長することを諦めた、惨めな虫だ。そんな半端者が苦し紛れに出した答えなに、我が野望を否定する論理的強度を備えているはずもない』
ミシ、という音とともに、ミノタウロスがその巨躯を前進させた。
裏切り者を始末するために。いっときでもこの二千年の暗闇のなかで現れた同士にして、外の世界への復讐を妨げる側へと寝返った怨敵を殺すために。
「最後にセーブしたのはどこだ? ……まあどこであろうと、この迷宮にクリスタルはない。死ねばここに戻ってくるまでには相当の時間がかかるだろう。無論、その頃には全てが終わっている」
明確な殺意が鏡花の体を突き刺した。
彼女の最もトラウマであり、忌み嫌う『悪意』が、失敗したとはいえ儀式の加護により増幅された状態で襲いかかっていた。
だが、それでも。
「――くす」
彼女は笑った。
『恐怖で頭がおかしくでもなったか』
「ふふ……そうかもしれませんわね。ただ、どうしても可笑しかったもので」
『……なに?』
「他人など気にしない。自分が欲しいものを持っていたら、ただ奪うのみ。それが矜持である腐肉食いにしては……ずいぶん、他人の生き方に執心のご様子なので」
『……』
「私の出した答えを言い訳と断ずるなら、それも良いでしょう。もとより、誰かに理解して欲しくて出したものではありませんもの」
『ほう……では、なんのために出しのだ。その無様な言葉は』
問われた鏡花が、剣を構えた。
堂に入った剣戟の攻撃体制と、迷いのない瞳でミノタウロスを見る。
「私はきっと……どこかで、あなたに憧れていたのでしょう。いっそ腐りきってしまえば、自分が放つ異臭にも気づくことなどないのですから。……ですがリズレッドが、そんな私にご馳走を振舞ってくれましたわ。いままで食べたことのないような、心の底から安堵するような食事を。――だから、この答えは誰に向けたものでもなく、自分自身へと給仕したものです。迷いそうになったときに、己自身に楔を打つための。私が私自身に振る舞う食事です」
その言葉を皮切りに、鏡花の体がバネのように縮み、そして弾かれるように床を蹴った。
リズレッドから直伝されたラビの速度をも超える、彼女の特化能力。
速度とはすなわち力を意味する。どんな非力でも疾さを乗せた剣戟ならば、膂力の優れた一撃に勝ることができる。
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