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 ――それが、スカーレッド・ルナーと恐れられるようになった彼女の、最初の一歩。

 この奥にいるであろうミノタウロスにも、白爺の身の上話を消えば同情の余地はあるし、もう一人、未確認の人物も素性はわからない。

 けれど、


「魔物に堕ちた元人間と、それに同行する人間。どちらも――交渉の余地など、あるはずがない」


 酷く冷たい声音だった。

 彼女に送られたエドの言葉を思い出すたびに、心のどこかでスイッチが入る。


 敵は殺せ。

 適正だと判断できる者は殺せ。


 人は悪だ。

 魔物は悪だ。

 エルフだけが正義の御旗の元に在る。


 血が一層熱を落とすのを感じた。聖域に無断で立ち入った中の目標を、彼女は心の中で敵と認定する。

 敵は殺して構わない。どんな事情や思惑があろうと、それは一切考える必要がないし、考えてはいけない。


 観音開き式の扉の取ってにそっと手をかける。


「――『疾風迅雷』」


 己の身に神の御技たるスキルが宿り、速度を向上させる。

 かけた手に力を込めて、彼女は力の限りそれを押し込んだ。


 がたん、というけたたましい音とともに戸は弾かれたように聖域への路を開いた。

 中にいるのは――あれがミノタウロスとやらだろう。牛の顔と人間の体を合成したような巨大な巨人が一体と。


「なんだ、お前だったのか」


 儀式の間でひときわ高く設置された祭壇。そこにこれから登ろうと足をかけていたのは、いつだったかシューノの街でラビに喧嘩をふっかけていた、金髪の青年だ。


「なッ!? もう来やがったのか!」

『ぬゥ……』


 盛大に扉を開け開いたのが功を奏して、二人は虚をつかれたようにこちらを同時に振り返る。その一瞬の硬直があれば、十分だ。入り口から祭壇までの直線距離にして二十メートル。熟練度を上げた彼女の『疾風迅雷』なら、手が届く範囲に等しいその空白を、赫月の姫が駆ける。


「話が違うじゃねえか化物! 最下層を抜けてここまで来るには、初見なら十時間以上はかかるって言ってたろうが!」

『今はそんなことを言っている場合であるまい。儂は奴には手を出せん。あの白き長剣。まさしく勇者の物……! いまはっきりと、あいつが『白剣の勇者』だと認識してしまった』

「……チッ」


 標的ふたつがなにやら喚いているが、好都合だ。

 混乱した相手を斬ることほど容易い仕事はない。

 リズレッドは聖域を犯した者に罰を下すべく、勇者の証たる白剣を横に構え――、


「……じゃあ、これならどうだよ。勇者様?」


 レオナスがにやりと口端を歪め、彼女の眼前に、かついでいた物体を示した。それは――いままさに自分を射抜かんとする赫光の矢にとってとても見知った者だった。


「う……」


 無遠慮に襟首をつかまれて、両者の間に盾として吊るされた少女がか細い呻きを上げた。

 傷つき血を流し、未だ昏睡を続けるアミュレ。

 だがリズレッドはその光景を目の当たりにしてもなお、機械のように標的を滅する意思が篭った瞳を変えることはなく、


 ひゅ、という鋭く短い刃の振り抜き音が鳴った。


 そこへ、彼女の神速に割り込むように突如として黒い影が現れる。

 現れた影は閃光めいた一筋の光を走らせたかと思うと、横薙ぎで振り払われたリズレッドの白剣に対して、直立の姿勢を取ってそれを受けた。光の筋の正体は一振りの刀だ。白剣よりもやや刃幅の狭い、反りの入った刀が、アミュレごとレオナスを分断しようと迫る騎士の一撃を防いだ。


 刀同士が鍔迫るときの、甲高くも鈍い金属音が辺りに響く。

 その男が合図となったのか、リズレッドの双眸にいつもの光が戻る。瞳の奥に気高く、そして暖かな焔を備えた双眸。そのふたつが、急に事態を把握したというばかりに驚愕の色に染まる。


「な……わ、私は……なにを……」


 いま自分が、なんの感情もなく振り払った攻撃の先にいたのは――助けるべきだった仲間の少女で。だというのに全く動じないどころか、気付きすらしなかった己に、ただ戸惑う。

 それに対して現れた影は、笑うでもなく侮蔑するでもなく、


「結局、人もエルフも、生き方を変えることなどできませんわね」


 声の主――鏡花は、淡々とそう告げた。

 リズレッドの白剣を受けて震える腕をなんとか持ちこたえさせながら、やはりそうなのだと。相手にではなく自分に言い聞かせるように。


「鏡花!?」


 矢継ぎ早に現れる予想外の事態に、リズレッドは一瞬、完全に思考を停止させた。

 それが鏡花に次の一手を許す。彼女は受けた剣を器用にずらすと、そのまま体制をかがめて無防備な下腹部へ向けて槍のような鋭い蹴りを放つ。


「……っ!」


 ダメージは軽微だった。もとより鏡花とリズレッドには大人と子供程度のレベル差がある。いくら不意をつかれようとも、それだけで致命の一撃になりはしない。

 だがそこへ、続く第二撃が加わった。


「よくやったぜ鏡花ァ!」


 盾に使ったアミュレを物のように放り投げ、レオナスが鏡花の前へと躍り出る。

 彼の戦いの本能が、追撃の瞬間を逃すまいと無意識に弾き出したような反応だった。


「――ぐっ!」


 姿勢を整えて迎撃しようにも、鏡花の浴びせた蹴りは彼女の身体を宙空に浮かび上がらせる程度には威力を放っており、なおかつ弾かれた白剣で迎撃するには時間がなさすぎた。

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