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 アモンデルトには為す術なく敗北し、自らの故郷を焼かれた。

 メフィアスには――いま思えば白剣が力を貸してくれたというのに、それでも届かず、奴の眷属へと堕ちかけた。


 そんな私の背中を追わせることが、彼にとって本当に良いのか?

 彼は優しいから。大森原でひとり死を待っていた、人嫌いのエルフを無理やり助けて、あまつさえ故国の無念への決着を手伝ってくれるくらいに、本当に――優しいから。


 だからあのとき本当は、この左手の薬指に嵌められている銀のリングも、本来ならば違う誰かに渡されるはずだったんじゃないのか?


 騎士としてあるまじき敗北を重ねていくうちに、その思いは日増しに強くなっていった。

 召喚者の間で、契約したバディによって捺される級付けもラビは黄金級で、世の中にはさらに上の召喚者も居るのだという。


 当たり前だ、と彼女は唇を噛む。

 いくら研鑽を重ねようとも彼女はエルダーという大国の、騎士団長だった存在だ。

 ひとり落ち延びたあとも修練に励む毎日を過ごしたが、それでも――あの団長には、勝てる気がしない。


 彼の強さは常軌を逸していた。

 人の内でありながら人の領域を超えた存在。


 エルダーが強国として他国にその名を響かせていたのは、彼の存在があまりにも異質だからだ。

 戦場を駆れば敵の首は落ち、地獄の底のような絶望的な状況でも、余裕さえ感じさせる立ち振る舞いでたちまち戦況を一転させる。


 西方の剣聖や、森樹海の大魔女と同列に扱われる人界の異端者。騎士王……そんな名で恐れられているのだとか。

 彼女にとっては生まれたときから共に育った、腹違いの兄のような存在。

 走って追いかけても、背中すら見えてくれなかった憧れの騎士の姿。


 「――あの人がラビと出会っていたら、きっと私など、」


 歯牙にもかけられなかっただろう。


 ただただ、そう思った。

 追われる者というのは、そういう存在でなければならないのだ。

 全力で走ってもおくびも距離を縮められない相手であれば、ラビもきっと、走りがいがあっただろうに。


「こんな……一年やそこらで背中を見せてしまう不甲斐ない師ですまない。だがそれを、今日で払拭してみせる」


 言って、さらに速度を上げる。

 ようやく見えた微かな光。自分にあの兄のような絶対の力があるとは思えないし、白剣に選ばれた勇者だなんて考えもつかない。

 けれどそれで、今の力無くみじめな自分を払拭できるなら……ラビに相応しい『追われる者』になれるのなら――神の儀式を、誰にも渡すつもりはない。


「ミノタウロスが相手だろうが、魔物になろうが――私は」


 そこまで言いかけたところで、迷宮は彼女にひとつの解を示す。

 複雑な通路はすっかり鳴りを潜め、真っ直ぐに伸びる回廊だけが続く道が続いたかと思えば――やがて、大きな門が姿を表した。


 等間隔に並んでいた光石の数が次第に距離を狭め、こと彼女の立つ終点に至っては、全面が光に輝く神秘の世界めいた空間へと変貌していた。


「……」


 リズレッドは息を呑む。

 堅牢の守りを誇る都市の、一部の旧支配者層以外からは忘れ去られていた古の蔵書庫。

 その最後の終着駅が、このような光景で満たされていたとは誰が思うだろうか。


 ここが、神が用意しれくれた聖域。


 厳かな雰囲気とは別に、彼女の心はすでにその内部――祭壇の間へと向けられている。

 気配を感じる。

 アミュレのようなスキルと呼べるほど卓越した物ではないが、彼女とて何度も死線を潜ってきた身。至近距離ならば、朧げながら生物の存在を察知することはできる。


 とても大きな気配がひとつと、自分と同程度の――おそらく人であろう気配が、奥で何やら話している気配。


 かちゃ、と、腰から下げた白剣に手を置く。

 ここに来て出会う巨大な生物などひとつしか候補はなく、それに追随する人間も、同じように敵性と判断して良いだろう。


 昔、まだ騎士団の副団長にも就いていなかった頃に、兄から言われた言葉が頭を過ぎる。


『リズレッド、お前は優しいから、魔物にも温情を抱いてしまうことがあるかもしれない。俺たちエルフを迫害してきた人族に、赦しを与えようと考えてしまうかもしれない。けれど――もしこの世界に英雄がいるとしたら、それはきっと、誰かを泣かせてきた者に、はっきりと鉄槌を下せる人だと俺は思う。何かに迷いそうになったり、心が磨り減ったときはこの言葉をよく思い出してくれ。きっとお前なら大丈夫。きっと俺以上の騎士になれる』


 幼い日のリズレッドは、よく死にかけの魔物に手心を加えては、手痛いしっぺ返しを食らうのが日常的だった。

 優しいという言葉は、周囲が自分に対して好意的な場合に用いられるものだ。

 対して、騎士として育てられているにも関わらず、未だそのような失態を犯す彼女へ向けて当時の周囲が捺した感情は、『甘い』。


 エルフを脅かす存在に対しても同情の年を抱いてしまうリズレッドを、陰どころか表立って笑う者もいた。

 そんなときにかけてくれた、兄のように慕う、そのとき一介の騎士でしかなかったエドの言葉だった。


 そして後日、瀕死の重症を負い命乞いをする魔物を、彼女は心を必死に押し殺して討伐した。


 最初は痛かった心が、命を刈り取るごとに何も感じなくなっていった。

 これこそが騎士の在るべき姿で、憧れの兄へ追いつく道なのだと幼い彼女は知った。

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