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 絶対に叶わない相手を、自分と同じ存在が討つ姿――自分に置き換えようとしたが、上手くいかない。

 自分にとって絶対に叶わない存在とは何か。

 ――口惜しいが、ここは暫定でこの世界の『神』をそこに据え置いてやろう。

 では、自分と同じ存在とは誰だ?

 同じく儀式によって魔物へと転生した、この古代図書館を彷徨う哀れな元ドルイド共か? ――笑わせるな。あんな、自分の意思すらすでに消失して、ただの魔物へと成り下がった体たらく共と自分を同列に並べるなど、あり得ぬ侮辱だ。そもそも自分は人間で、やつらはただの人形。比較の対象にすらなりはしない。


 ――ならば、自分と同じ存在とは。

 そしてミノタウロスは、ほぼ無意識に後ろを振り向く。


 先ほど、微かではあるが自分と同じ系統に属する人間だと認めた相手。

 他者を自分が成功するための材料としか認識できない、人の社会では弾かれる腐肉喰い。


 こいつがいつか、神を殺すところを想像する。

 自分が授けた恩寵を携えて、いつか、神の頂きまで到達して――そこで。


『……確かに、それは許せんな』


 自分がそう在りたいと願う存在に、誰かが挿げ変わる光景など想像するだけで吐き気がする。

 ましてや、そこに微小ながら羨望の感情など含まれていようものなら、己を嫌悪して死にたくなるだろう。


 ――ああ、そういうことか。


 ミノタウロスはそこで、唐突に理解した。

 こいつはその白髪の男とやらを、英雄と認めてしまったのだ。


 天を支配する吸血鬼の姫を、血を流しながらも打ち取ったという青年。

 その光景を無力に、地に這いつくばりながら見せられたこいつは、そのとき決定的に奪われたのだ。自分の誇りを。信念を。


 それに同意するように、レオナスは言葉を引き継ぐ。


「――ああ、許せねえ。英雄って奴は、人の上に立つ奴のことだ。そして人の上に立つ資格は、他人を喰い物にしてきた奴の特権だ。誰も傷つけねえし、自分の身を犠牲にして他人を守る――そんな笑えねえ綺麗事で、本当に英雄になんてなられたら堪ったもんじゃねえ」


 ミノタウロスは思い起こす。

 確かに、自分も人間だった頃に、多くの他者を蹴落として軍事研究所への配属を果たしたのだと。


 学生時代に良い成績を残し、有名な学校へと進み、そして――。

 そのどれもが、傍目に見れば輝かしい人生の軌跡で、それを否定する人間などいない。


 だが見方を変えれば、自分が栄光のポストに座ったことにより、そこに座れなかった人間は確実に存在する。

 人の世は手と手を取り合うことを強要しておきながら、同時に他人との競争を強いる矛盾を孕んだ社会形態だ。


 こいつと自分は、後者の生き方に強く共感した人間なのだろう。

 自分が良い思いをするためならなにを犠牲にしても良いし、成功さえすればそれは正義となる。


 ――だから、許せない。

 他人と手を取り合うだけで成功の道を行かんとする、たわ言めいた存在の、その白髪の青年のことが。


 あまつさえ、そこに羨望など抱いてしまったのなら。


『……英雄を、引きずり下すということか』

「そうだ。自分を犠牲にしてみんなを守った英雄気取りのバカに、自分は無傷で、仲間だけが無様に殺される様を見せつけてやる。――そうしねえと、頭にこびりついたあの光景は消せねえ。このガキはそのための素材になってもらう」

『……』


 近い将来、自分に殺される男が猛る姿に、奇妙な思いを抱きながらも、ミノタウロスは返答を返さずに前へと進み続けた。

 人形とはいえ人と同じ重量を担いでの進行は目に見えて鈍化している。くだらない考えで携帯しているならとっとと捨てろと言うつもりだったが、何故か言い止す気も削がれた牛人は、ただ黙って儀式の間へと向かう。

 同行する金髪の男だけが静寂を払いのけるように、いつまでも与太話を発し続けていた。

 そして――そんな二人を追う影がひとつ。



  ◇



「――なぁ白爺、儀式の間はまだなのか?」

『そう急くな。我輩とてここに来たのは二千年ぶり。太古の記憶を呼び起こしながら進んどるんじゃ』


 最下層に到達した俺たちは、白爺の案内に従って全速力で最奥の目的地へと向かっていた。

 速度特化の俺とリズレッド、巨人で一歩分の歩幅の大きい白爺の三人パーティは驚くくらいに進行速度が早く、迷宮の景色が瞬く間に後ろへと流れていく。

 だが最下層の面積は想像していた以上に広く、既に三十分は全力で走っているというのに一向に着く気配はない。

 右へ左へとうねる通路が、いまはただもどかしい。


「ミノタウロス以外に魔物がいないのは有難いな。おかげで進行に専念できる」


 俺と白爺が全力で疾走して軽く息を切らせているというのに、涼しい顔でそう告げるリズレッド。白爺も一応魔物なのだが、そこは置いておくとしよう。


「……だが、ミノタウロスが白爺の言う通り儀式を歓迎してくれるかには、疑問が残る」

『……』

「薄々、感づいているのだろう? 相手が私を歓迎しないであろうということは」

『……そのときは、我輩が奴を足止めしよう。神から与えられた役割が強制力を発揮して、本来なら奴は白剣の勇者に指ひとつ触れられぬはずじゃが……あやつのこと。どんな悪知恵を働かせているかわからんからの』

「その前に、俺はアミュレのほうが心配だ。もしあの場所からミノタウロスが連れ去ったのなら、一体なんの目的で……」


 そこまで言いかけたところで、俺は言葉を止めた。

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