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 リズレッドの言葉に反抗しようと口を開くが、出てくるのは意味をなさない喘ぎのような声ばかりだった。

 ――俺自身が、それをよく理解してしまっていたから。

 あのメフィアス戦で、俺は確かに理性を失い、あろうことか己を守ってくれたアミュレへさえ殺意を抱いた。

 あのときの俺は、俺であって俺ではない。まるで人間の戦闘本能が別人格を得て、すべての身体機能を乗っ取られるような強制的なものを感じた。

 湧いてくるのは、奪いたい、殺したいといった、相手に対する圧倒的な支配欲だけ。


 ……きっと俺は、ここを出て下層に辿りつく頃には、幾度とない激戦を経て――また、ああなってしまうだろう。

 その位の無茶をしようとしていることくらいは、部屋の外から微かに響く無数の蠢きを聞けばわかる。


 だけどその先のことは、恥ずかしながらなにも考えていなかった。

 外の魔物も――あのミノタウロスも倒せば、全てが解決すると浅い考えを巡らせていた。


 けれどリズレッドは、さらにその先を読んでいた。

 もしその無茶が通ったとしても、アミュレの前に立ちはだかるのは、もはや闘争本能だけとなった俺。

 そんな状況になったら、きっと俺は――。


「……君がいまここを出ていったときが、私と『君』との別れになるだろう。……化物となった君は、召喚者の理で――もう二度とこの世界には来れなくなるのだろう?」

「――」


 そうだ。プレイヤーの精神状態を逐一チェックしているナノマシンにより、一定の水準を超えた波長を脳が示した際にはペナルティが発せられる。

 さっき俺が受けた警告を示すイエローウィンドウと、一週間のログイン禁止を示すレッドウィンドウ。そして、さらにその上には――永遠にログインすることができなくなる、ブラックウィンドウが存在する。

 サービスが始まって一年余、いまだにプレイヤーの中からブラックが出た者はいない。

 それだけ高く水準を設定され、もはや狂人の域に踏み込んでしまった奴にだけ発せられる超緊急命令だ。


 けれど……きっと、『トリガー』によって自我が壊れれば、俺がその第一号になるんだろう。

 メフィアス戦のときに激しい痛みを感じながらも、イエローウィンドウが出なかったことを考えると、おそらくスキル発動中はシステムの埒外にいる。発動する限りは、警告を喰らうことはない。

 だけど、どんなスキルにはリミットはある。……制限時間を過ぎた瞬間が、ラビとしての最後だろう。


 ラビとしての最後。

 その言葉を頭に浮かべた瞬間に、いまさらながら震えが戻った。


 消える。なにもかも。リズレッドと出会って、旅して、少しずつ積み重ねてきたものが――全部、消える。


 汗が流れ、背合わせの俺たちの間に、長い沈黙が落ちた。

 リズレッドがゆっくりとこちらを向く気配がした。


「ラビ」

「……」


 呼ばれて、ゆっくりと振り返る。

 そこにいるのは、憮然を込めた顔か、それとも失望に落ちた瞳か。

 けれど、


「君は……私にこれをくれたじゃないか。ずっと一緒にいて、いつか私の横に並ぶ男になってくれると……そう、約束してくれたじゃないか」


 振り向いた先にいたのは、いままで見たこともないリズレッドだった。

 いまにも泣き出しそうで、ひとりぼっちになるのは耐えられないと、心の底から懇願するような――弱い少女のような雰囲気を漂わせるリズレッド。


「私はもう、ひとりは耐えられない。エルダーを陥とされて、あとは死ぬしかないと覚悟して……森で自死しようとしたところで君に救われて……なのに、君も私のもとから去ってしまうのか? ……いかないでくれラビ。お願いだ……お願い、だから」


 そう言って、リズレッドは左腕を上げる。

 開かれた指の中指に嵌められた銀色のリングが、光石を反射して弱々しく光る。


 胸がずきりと痛んだ。

 自分がいま、どれだけ彼女を傷つけたかを、ようやく自覚した。

 お互いの指に嵌められた誓いの指輪は、単にバディの関係を示すためのものではない。

 少なくとも俺はシューノの街で、これを彼女に贈ったとき――それ以上の意味を込めていた。


 ずっと一緒にいようと。

 それに見合うだけの男に、必ずなると。

 そう誓って、彼女の指に俺が嵌めたんだ。


 ……なのにいま、俺はまるきり自分のことしか考えていなかった。

 アミュレを助けるために自分ひとりで特攻する?

 死んでも生き返れるから適任だ?


 ――なにを言っている馬鹿野郎。

 そんなものは仲間を危険に晒した責任から逃れるために、崖からいの一番で飛び降りようとしているだけに過ぎない。

 ヒロイックな気分に浸って、自分ではどうしようもない状況に自分を追い込んで。そして、誰かに終わらせてもらうのを待っていただけだ。


「……リズレッド、悪い」


 そう言って、俺は部屋の壁際に移動すると、迷宮の硬い石壁に手をついて――思い切り額を叩きつけた。


「ラビ!?」


 後ろから驚嘆の声が響く。

 だけどこれ位しないと、とてもじゃないと恥ずかしくてリズレッドと目を合わせられそうになかった。

 一緒にいると誓ったくせに、少し危機に陥ったくらいで責任を放棄しようとした不甲斐ない男の、せめてものけじめというやつだ。


 もっともいまは『トリガー』を使っていないから、痛みもなければ血も出やしない。

 減るのは数字上のHPだけで、血のかわりに額に赤いのダメージエフェクトが光る。

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