63
待ってろ、すぐにそっちに行く……!
肺が破れるのではないかという全力を出しても、不思議と胸を苦しくならない。そして進む距離も、もどかしいほど遅い。
それでもようやく手を伸ばせば届くという至近まで近づき、大きくの手のひらを広げて腕を伸ばした。
もう少し。もう少しだ。怖い思いをさせてごめんな。俺はパーティの統率役なのに。俺を信じてここまでついてきてくれたのに。こんなところでひとりぼっちにさせて、本当にごめん。
――だがその腕が伸びきる前に、アミュレの後ろに存在する何かが、闇のなかから巨大な体躯をひねり、さきに彼女を鷲掴んだ。
ゴフー、ゴフー、と、まるで怒りを蒸気に変えて噴出させているかのような鼻息が耳に入る。
やがて後ろにいた何かは着いていた膝を持ち上げ、その巨大な全容を明らかにする。
あのとき見た、心に恐怖を植え付けるような特異の魔物、ミノタウロス。
そいつが俺の前に立ちはだかり、そして右手には体を握りこまれ、頭だけを出したアミュレが、助けを求めるように俺を見ている。
アミュ――、
言いかけたとき、牛人の拳が音もなく力を込めた。
いままで一言も声を発しなかったアミュレから、そのとき初めて、全身の骨が砕ける鈍い音が鳴る。
ッ! やめろ! やめろォォオオ!!
咄嗟に武器を取って殴りかかろうとするが、なぜか腰に携帯していたはずの杖はなく、それどころか鞄すら装備されていない。
素手でどうにかなる相手では、とても……。
及び腰になった一瞬、頭上から、どさり、と何かが落ちてきた。
見やって、思わず口に手を当てる。
暗闇しか見えない地面に、掴まれていなかった頭部のみを残して、他の部位が全てデタラメにねじ曲がった小さな少女の姿があった。
唯一原型を残す頭も、圧迫により口から夥しいほどの血や、体のなかに収まっていたのであろう臓腑が見え――
あ、ああ、あああ……
俺が、俺がこんな迷宮のクエストを受けたから。
彼女の信用に足る力がなかったから。
膝をつき、その様子をただ傍観するしかない俺へ向けて、唐突に骸となったアミュレの首が向いた。
ぐずぐずとなった体は一切動かず、可動域すら無視して、ぐりんとこちらに振り向いたアミュレ。すでに瞳孔が開き、生の光を宿していない双眸を見開いて、ぽつりと告げる。
「信じてたのに」
その声音の、熱のなさ。失望と落胆の色が、心臓を握りつぶすかのようで。
汗と動機でついに両手をついてくず折れる俺に対し、アミュレはもうなにも言ってはくれなかった。
すでに事切れ、この世に存在しないものとなった骸の少女。
自らの生い立ちから逃れ、ようやく自分の生きる道を進み始めた少女の――その最後の言葉は、俺への憮然の言葉だった。
あ、ああああ、あ、あ……
耐えきれず絶叫を上げる寸前、今度はすぐ背後から、ふいに気配が現れる。
どこかで感じたことのある気配。鋭く、気高いが――どこか脆い、そんな気配が、後ろでかすかに口をふるわす。
「信じようとしたのに」
すぐ耳元で囁かれる、血に濡れた神速の女剣士の声。
その瞬間、俺はついに恐怖に身を支配された。
◇
「うわああああああああああああああああ!!」
つんざく絶叫が自分が発した物であるということを、半ば自覚しないまま咄嗟に上体を起こす。
俺はついさっきまで、光のひとつも見えない暗闇を走っていたはずだ。
だけど今は……ここは、どこだ?
「ラビ、落ち着くんだ!」
混然とする意識のなかで、とても心地の良い声が俺の名を呼んだ。
「――は、はぁ……はぁ……あ、リズ、レッド……?」
「そうだ、私だ。怖がらなくていい、ここは安全だ」
肩で大きく息をして、いまにも口から飛び出そうなほど動悸している心臓と、全身の発汗を感じながら、なんとか意識を回復させていく。
そして横には、気を落ち着かせようと背中をさすり続けてくれるリズレッドがいた。
首を降って辺りを見回す。
リズレッドが安全だと言った謎の空間は、迷宮に定点設置された光石のおかげで完全な暗闇ではなかった。けれど互いの顔すらはっきりとは認識できない程度には視界の悪い、閉ざされた四角形の部屋。
「ここは……俺は、どれだけ寝て……。いや、それよりも……あれは夢だよな? アミュレがミノタウロスに……くそっ、早く助けにいかないと」
ぴ、という電子音が鳴り、プレイヤーの精神状態が危険域に達しつつあることを示すイエローウィンドウが表示される。
こいつが一日のうちに三回表示されるとレッド。つまりは、一週間のログイン不可となってしまう。
「落ち着け。そんな状態で、一体なにができるというんだ」
リズレッドが釘を刺す。
事実、その通り体は思った以上に言うことをきかず、立ち上がろうと膝に力をいれても、震えて上手く足をつくことすらできなかった。
なんでだ。くそ。俺は不死身だ。
HPのバーだってまだ余裕がある。『トリガー』は使わなかったから、感覚的な痛みだってなにもない。
無限の命をいまこそ活用すべきときなんだ。ひとつしか命のないアミュレに、危機が迫っているんだから。
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