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「……ありがとう、ア――」


 感謝の言葉を述べようとしたそのとき、嫌な軋み音が耳に響いた。

 次の瞬間、いままさに声をかけようとした少女の足元の床が崩れて落ちた。

 まるで闇の口が開いたかのようにぽっかりと空いたそこへ、装束を来た小さな僧侶は成すすべもなく――いや、自分の置かれた状況を察することもできず、バランスを崩して飲み込まれる。


「え?」


 踏むはずだった床がなく、足裏から伝わるはずだった接地感を得られず。不意に襲ってきた浮遊感にただ翻弄されるようにアミュレは声を上げた。


「アミュレ!!」


 咄嗟に手を伸ばす。

 だが彼女を襲う落下速度のほうが遥かに早く、服の端を掴むこともできず――アミュレの姿が、無限の闇へと消えていく。


「アミュレ! くそ――待ってろ、いま行く!」


 崩れて空いた虚空のなかに咄嗟に身を放とうとしたとき、


「おやめなさい。この高さから落ちて無事で済むとは思えませんわ」


 熱のない声音で、鏡花がそれを静止した。


「じゃあなおさら助けにいかないとだろ! 無事で済まないだけじゃなくて、この状況でひとり孤立するだなんて絶対にだめだ!」

「だからあなたも同行すると? ……それが、このパーティのリーダーとしての最適な行動だと、そうおっしゃるんですの?」

「……それは……それでもでもアミュレは俺たちを助けてくれて……大切な仲間で……!」

「……なるほど。あなたの気持ちはよくわかりましたわ。切迫した状況なのは私も同じ。ですがあなたは、アミュレを助けに行くと言うのですね」


 一瞬。

 鏡花の顔が、ひどく寂しげに微笑った気がした。

 まるで拠り所を見つけたと思った小鳥が、やはりここは自分の住処にはならないと判じて飛び去るような。


 彼女がどういう気持ちでそう告げたのかを考えようとしたが、虚空へと消えたアミュレへの焦燥と、そんな状況などおかまいなしに迫ってくる無数の魔物たちの咆哮がそれを許さなかった。


『早くしろ貴様ら! 死にたいのか!』


 先行していたはずの老トロールが、いつのまにか目の前にいた。胴間声を上げながら掌をひろげると、そのまま俺の体を鷲掴む。


「離せ! 俺はアミュレを追う! こんなところで一人きりになんて、絶対にさせやしない!」

『諦めろ。ここの下はこの迷宮の最下層。――奴の領域だ。癒術の腕は確かなようだが、とてもじゃないが生き残れんよ。死人は少ない方が良いだろう』

「ッ! 貴様――……!」


 もはや手段を選んでいる時間はない。

 リズレッドへの約束を違えることになるが、『トリガー』を使って強制的に拘束を解き、アミュレを救出する。

 俺の頭が狂うか、助け出すのが先か。

 ――いや、かならず救ってみせる。たとえその先に二度と自我を取り戻すことのない結末が待っていようとも。たとえ大群に飲まれ、成す術もなく一斉攻撃を受けるなかで激痛による死を迎えようとも。


 ――たとえ助け出した先に、理性が灼かれて一介の狂人に成り下がろうとも。


「『ト――、」


 決意を胸に反逆の鐘の音を鳴らそうとした瞬間、甘い香りが鼻腔を突いた。

 これは――眠りの芳香? だけど、それにしたって。


「よく効くでしょう? 弔花特性の夢忘草の種から抽出した与眠道具ですわ。あの子、旅の傍らで錬金術にも傾倒していましたから」

「ぐ……鏡花、お前、どう……して……」


 催眠を誘発して一定時間の行動不能をもたらすアイテムは、それほど珍しい物ではない。

 ウィスフェンドでも割と安価で売っている、広く普及したコモンアイテムだ。

 だけど当然、効能の程は値段程度のものでしかない。

 十回使って一回成功。しかもそれすら数秒しか持たないというただの趣向品。


 けれど弔花が製造したというこれは、明らかにそんなレベルに収まるものではなかった。

 トロールの腕に握られて移動中のさなか、一瞬肺に入れただけで、まるで何日も徹夜したあとのような眠気が襲いかかkり、瞬く間にラビの体を浸食していく。


 しかもそれだけではない。

 恐ろしいのは、向こうの世界でポッドに横たわる俺の脳に直接効果をもたらし、本物の気だるさとしてフィードバックされていること。

 おそらく製作者ですら想定外だったのだろう眠薬錬金の極。

 痛みを遮蔽するシステムも、眠りまでは判定しないということか。ましてや数秒眠らせる程度が関の山である本来の性能を考えれば、セーブ機能を設けるだけ手間というものだ。


 もはや目を開けることもままならず、うなだれながら、辛うじて周囲の気配を探るだけに落ちたとき。


「さようなら、私の英雄」


 鏡花の、とても寂しげで、そして酷薄な声が聞こえた気がした。



  ◇



「ったく、あいつら無茶しやがる」


 鞄に格納していたポーションを荒々しく飲み干しながら男は吐き捨てるように毒づいた。

 レベルは上位層にも属する彼とて、単独での迷宮探索は危険を伴う。召喚者やネイティブから奪いあげた金で回復薬を買い漁り、文字通り死を恐れぬゾンビのごとく突き進むのがプレイスタイルでなければ、おそらくはここで命を落としていただろう。

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