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 ……確かに、あっちの世界では目に見えたレベルアップなんて存在しない。

 けれどリズレッドが言わんとしていることは、なんとなくだが理解できた。

 要するに人が手出しできない領域のことを、この世界ではことわりと言うんだろう。水が百度で沸騰するように。炎を低温から高温になるほど白色に変化するように。現象を観察して技術に利用することはできても、そのルール自体からは絶対に逸脱できない。


 そこまで思考を進めて、神と対話できる樹がどれだけおとぎ話めいた物かがわかった。

 リズレッドが言ったように神とことわりが同一視されているのなら、ルールに対して直接会話できる場所がかつて存在したということになる。

 何故、水は百度で気化するのか? それを直接、そのルール自体に問えるようなところがあるとすれば、まさしく神域だ。


「……俺たちはこの世界に来たときに、全員が女神様と会話してる。だからどうしても意思のある存在として認識してたけど、リズレッドたちにとっては少し違うってことか」

「もちろん私たちとて、神が意志ある存在とは認識している。だが万物の理を敷く者という前提がそれを霞めてしまっているんだ」


 万物の理を敷く者、か。

 俺たちの世界流に言えば宇宙の声を聞くとか、自然と対話するとかそういう類の話だろうか。……確かに、すぐに飲み込めるものでもなさそうだ。


 けれどこの世界には、かつて実際にそれが可能であり、それを行う神域が存在していた。

 なぜそんな大層な場所が消えてしまったのかが気になったが、それよりも先に最初の疑問を解決するほうが先だ。


「――とりあえずその話は置いておこう。いまは『白剣の勇者』について、」


 が、そこで唐突に空気が震えた。

 老トロールが戦意を喪失して静謐さが満ち始めていた迷宮内に、多数の魔物の鳴き声が反響する。


「ッ、これは!」

『……どうやら、他の奴らもお前たちの存在に気付いたようだな。全く、つい先日もエルフの侵入を許したばかりだというのにこの体たらく。迷宮の番人の名が鳴くわ』

「他のエルフ、だと?」


 反応したのはもちろんリズレッドで、どんな猛攻でも眉一つ動かさなかった彼女の表情が、いまは疑念と当惑を示している。

 だけど返答を待っている時間は、どうやらない。


「とりあえず前層に戻ろう。ここにいたら魔物の大群に飲まれる」

『残念だが、それは無理だな。この声の反響具合からして、上へ昇る階段はすでに我が同胞で満たされておるだろう』

「そんな……! やっぱり、これを狙って……!」

『見くびるな小娘。我輩に戦う意思はないと断言したであろう。自らの口から出した言葉を違えるほど、耄碌などしておらんわ』


 そう言うや巨人は鼻を鳴らしながら立ち上がった。

 傍らに控えた己を癒す幼い術者を踏みつぶさないよう配慮しつつ、死に体だった巨躯が再び迷宮に復活する。


『ついてこい、我輩の住処に案内してやる。迷宮と言っても数千年、住み慣れた居住区だ。他の奴らも我輩の縄張りには入ってはこんだろう』

「なんで、そこまで……?」


 アミュレが怪訝さを隠しもせずに応答する。

 それに対し老トロールは、顎から生え伸びた白髭を撫でながら言った。


『言ったであろう。『白剣の勇者』の力となるのが我輩に課せられたロールだと。…それに、久々に人語を話しておかんと、そろそろ本当に忘れてしまいそうだからのう』


 その表情にはどこか穏やかで、昔を想い滲みだす哀愁の色が浮かんでいた。

 鏡花はその光景を、目を眇めつつ見やる。


 ここにいる全員にそれぞれの思惑はあるのだろうけど、ひとまず俺はその思考を遮るようにして号令する。


「わかった。全員、こいつのあとに従うんだ。たとえ罠だったとしても、この鳴り響いている大群全員を相手にするよりは何倍もマシだ」


 そこから先は一目散に走り、俺たちは通路が前層に比べて格段に広くなった迷宮内を駆け抜けた。

 右へ左へと複雑に入り組んだ通路が続き、ついに自分が辿った道順が怪しくなってくる。

 ちらりと傍らを走るアミュレに目を向けると、彼女が不思議そうな顔で問いかけてくる。


「どうかしましたか?」

「あ、いや。……こんな切迫した状況で、さらにこの入り組んだ構造だろ? きちんと現在地を把握するのは、相当難しいんじゃないかと思ってさ」

「――もう、ラビさんったらからかってるんですか? この程度のことで地点を見失っていたら迷宮学なんて修められませんよ」


 純粋にそう思ったのだろう。

 アミュレは気分を害したというよりも、からかいと受けとったらしく、軽い感じで返してきた。


 ――本当にこの子には、世話になってばかりだ。

 彼女の学識がなければ古代図書館をここまで攻略することはできなかったし、癒術がなければ先行する老トロールと、こんな関係を結ぶことはできなかった。――そして、こう言っては本人が嫌がるだろうけど、盗賊のスキルを大きく助られれた。右へ左へと曲がりくねる通路の先に敵がいたとき、気配感知により先に存在を察知できることのアドバンテージは計り知れないものがある。

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