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 己の本能に呑まれそうになった俺なら、それがどれだけ苦痛なことかがわかる。一瞬で自分の精神を侵食するほどの血を注がれてもなお、リズレッドは俺たちへ剣を向けることを、最後の最後まで堪えてくれた。


 彼女の強さに、気高さに、心の底から尊敬の念が湧いた。そしてそれと同じくらいに、感謝の気持ちも。その感情に導かれるように、俺は彼女の瞳を真正面から捉えて、数秒、吐息のかかる距離で見つめると――そのまま、彼女の唇に自分の唇を重ねた。


「……………………っ」


 リズレッドの体に動悸が走るのを感じた。どれだけの間そうしていたのか。呼吸の間にすら満たないほどの刹那だったようでもあれば、時間というものを溶かして凝縮させたような永遠さも感じられた。いつの間に彼女から放たれていた閃光は止み、辺りは月光だけが照らす静かな夜へと変貌していた。メフィアスの存在はおろか、虫の音すら聞こえない。ここにいるのは俺とリズレッドのふたりだけなのではないのだろうかと勘違いしてしまうほどの、静止した時間のなかで、唇を離した俺の目に彼女の蒼穹の眼がからんだ。


「ラ、ビ…………?」


 蚊の鳴くような凛怜の声。俺はそれに、こくりと頷いて返した。


「ああ、俺だ、リズレッド。帰ってきたぞ、約束通りにな」

「――――――――っっ!」


 今度は彼女のほうが、俺の背中に手を回して強く抱きついた。


「――会いたかった! ずっと、ずっと、会いたかった……!」


 あの気丈なリズレッドが、全身を預けて泣くような叫びでそう語る。

 俺とリズレッドは、ついにロックイーターと戦った夜の日から再開を果たした。この悪魔によって瓦礫と化した城塞都市の、燃え盛る凶炎に満ちた街路で。


 そしてそれを、憤然として見つめる双眸があった。


「……チッ。酷い茶番ね。これではどちらが道化か、わかったものじゃないわ」


 メフィアスからは余裕と残虐性を宿していた笑顔は搔き消え、嗚咽するような醜悪なものでも見るかのように眼前の光景を侮辱した。彼女から見ればそれは、悪意を伝染させるという真祖の吸血鬼としてのプライドを非道く傷つけるものだった。己の虜にしようとしたエルフは他の男の腕で泣き、英雄から狂人へと未来を犯してやった男は、いまなおそこに輝くような理性を保っている。


「――――そんなもの、許せるわけないじゃない」


 だからこそ、悪魔は翔んだ。目の前にある失敗を消すために。

 抱き合うふたりの虚を衝いて迫る魔の手に、横にいたアミュレが目を見開いて口を大きく開いた。叫ぶために。大声で叫び、やっと再開を果たせたふたりを守るために。

 ――だがそんな少女の不安は、杞憂で終わる。


 風がなびいた。

 とても鋭く、とても疾く。

 アミュレの栗色の髪がふわりと疾風に乗ってかき上げらる。彼女は今度こそ、目をまん丸にして、自分の眼前で起こった出来事に驚嘆して口を大きく開いた。


「か、は――っ!?」


 光刃が悪魔の腹に深々と一撃を加えていた。

 横腹に一閃を放たれたメフィアスは辛うじて上下の体を分断されることは逃れていたが、それでも内部へと切り込まれた傷のダメージは甚大。堪らずうめき声を漏らして、よろよろと後退する。

 だが彼女にとって、傷の負傷よりもさらに衝撃だったのは――彼の一撃が、全く見えなかったこと。

 悪魔の瞳を以ってしても捉えることのできない速度によって、自分の体は汚されたのだ。見ればその張本人は高熱を纏った灼炎の剣を片手で掲げ、こちらをじっと据えている。


「どうしたメフィアス。少し――――遅くなったんじゃないか?」


 ぞわりと、背中に冷たいものが走った。

 メフィアスは痛む腹部を抑えながら、その正体がなんであるのか探った。だが導き出された答えは、まったくの無。彼女には目の前で立っている男が一体何者なのか、そして自分がなにに対して戦慄を覚えたのかが理解できなかった。


 先ほどまでは取るに足らない虫けらだったはずだ。

 どんなに羽化を繰り返そうと、所詮、虫は虫。その様相に気を取られることが万一あるとしても、自分を脅かすほどの脅威になどなろうはずもない。あのリズレッドが覚醒して放った白剣さえも、少し本気で小突いてやれば、それで終わらせられるほどの力の差が魔物と人間にはあるのだ。


 だというのに、この男は――なにかを掴み、羽化を果たしたこの男は――もはや、虫ではない。


 屈辱的な結論がメフィアスの脳裏をよぎる。

 ぎり、と唇を噛むと、その疑念をそのまま相手にぶつけた。


「――あなた、なんなの。一体その力は、なんだと言うの……!?」


 急いで意識を傷口に集中して、自動修復を促進させる。灼き斬られた裂傷は彼女の意に反して戻りが鈍く、顔をしかめる。唯一の不幸中の幸いは、熔断とも言える超高熱の刃で斬られたことで周囲に皮膚が熔け、出血を免れていることだろうか。だが、

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