112

  ◇



「はァ――はァ――ッ!」


 ノートンはたどり着いた二対の先人の大立像の前に立ち、荒い息を放ちながら、土台に刻まれた古代文字に手を這わせていた。


 先ほどまで自分の命を穿とうと苛烈に放射されていた殺意の波動からようやく逃れ、生物としての生存本能が、早くこの場から逃げろと全力で思考へ命令している。彼はその本能を強引に跳ね除け、昔、父親から伝え聞いていた古代解印術の工程を丁寧になぞっていた。


 まさかこんな往来に堂々と古代の遺物へと繋がる回廊があるなど思いもよらなかったが、確かに二つの立像の足元には、幼い頃に見た記憶のある複雑な古代文字が刻まれていた。


「刻まれた刻印に純血の血と、祖先より伝えられた特殊解論を唱えれば扉は開くのだったな……!」


 もはや一刻の猶予もなかった。

 自分に向けららえた敵意が消えたということは、それを防いでくれている何かがあるということ。そして六典原罪のそれに真っ向から退治できる者など、この街において一人しか存在しない。


 ノートンの脳裏に、エルフの姿が浮かんだ。


 黄金のような髪と、こちらの全てを見透かして見下すような、気丈な瞳。彼女の全て彼にとって忌々しかったが、こうして命を助けらえているいまとなっては、そんな思いなどどこかへ霧散していた。あの少女の願いを叶えたいという思いもあるが、それ以上に彼は、自分がこの生まれ故郷にひとなりの感情を抱いていたことを、このとき初めて知った。


 彼女を失うことは、城塞都市の陥落を意味する。果たして自分が解き放とうとしている彼が、それを救えるのかはわからない。――だが、救えるとしたら彼しかいなかった。ロックイーターという化物を、まだこの世界に降り立って一年という、新兵程度の戦歴しか持たない召喚者が討伐できたのは、きっと偶然ではない。戦場にある全ては必然。この世界の神は、運によって戦局を好転させてくれるほど甘くはない。ならばいまは、賭けよう。六典原罪という凶悪に立ち向かえる男に、その全てを。


 持っていた剣で人差し指の先に切れ目を入れた。傷口から血が表面張力をもってぷくりと膨らみ、それを台座に刻印された文字のくぼみへと垂らした。

 文字が血を吸うかのように滴る赤い液体を飲み、刻印が満たされていく。ノートンはその間にも封印障壁を解くための特殊解論を紡ぐ。次第に彼を取り囲むように魔法陣が薄く輝きを灯し始めた。かと思うと、己の足元から何者かの声が小さく響くのを感じた。忘れもしない、あの夜にギルドで因縁をつけた、白髪の青年の声だった。封印が剥がれはじめ、音障壁が破壊されたのだ。


 あともう少しだ。

 見れば出現した複雑な編み物のような魔法陣は、大きな光を放って彼の呪文を迎え入れていた。最後の自分の役目を全うするかのように。もしくは、解放という封印術にとっての死に、悲鳴を上げるように。


「朽ち果てよ創造、晴れ吹け幻想、祖にして従なる使が願い請いる、血盟をここに終焉せり――」


 その言葉が皮切りとなり、一層に眩い光を放出した魔法陣が、まるでそれが最後の咆哮であったかのように、ぷつんと消滅した。

 そして異常を察したメフィアスの眷属が一体、彼の背後から猛然と襲いかかるのは、まさにそれと同時だった。


「――!?」


 後方に控える悪魔の威圧に耐えながら、精神力を要する特殊解論を唱え終わったノートンは、その不意打ちに目を大きく見開いた。


 死ぬ。そう思った。

 だが飛び跳ねる心臓とは裏腹に、心は驚くほど静かだった。やるべきことをやった、という思いが胸を満たしていた。笑える話だ。自分のために城塞都市があるのだと幼い頃から教育され、それを信じて疑わずに歩んできた人生だというのに、最後の最後になって到達したのが、城塞都市の為に命を賭する自分であり、しかもそれに穏やかなものを感じるなど。


 彼が己の使命を全うしたと自負し、瞳をゆっくりと閉じようとした瞬間、地が揺れた。


 何者かが暗闇の底から昇りつめてくる気配が起こるが、悪魔の眷属はそんなことには気づかず、猛然と主人から拝借した身体能力と鋭爪を男に突き立てようと迫った。そしてあと数瞬、何事もなければ目蓋を一度開閉すれば終わったであろう出来事の一歩手前において、その凶撃は直下から舞い上がった岩土によって阻まれた。


 吹き上がった地面が眷属を飲み込み、命を刈り取るはずだった爪が奔流のなかに消えた。あわやというところで命を取り止めたノートンは、己の眼前に壁のように立ち上った土煙を見た。時折、煙幕のなかから燃え盛る炎の尾が姿を見せた。まるで長い間密閉された空間に閉じ込められていたエネルギーが内部で増幅を続け、ついにいまこの瞬間に蓋を破り、苛烈な爆発力をもって外の世界へと溢れ出たようだった。紗幕なカーテンでも取り払われるようにして、徐々にひとりの人影が輪郭をあらわにしていく。やがて煙が完全に晴れたとき、姿を現したのは、灼熱を灯した杖を握る青年。


 ノートンに背を向けながら、眷属へと――いや、眷属が追い迫ってきた、遥か前方、戦いの最前線を見据えるように、白髪の青年がそこには立っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る