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「……なにがおかしいの?」
普通であれば絶望に打ちひしがれるであろう場面で笑いを見せる彼女に、メフィアスは素直な疑問を口にした。こちらも苛立ったような気配はなく、純粋な興味で訊いたという感じだった。
「お前のおかげで、懐かしいことを思い出してな」
十日ほど前には当たり前に隣にいた彼を思い浮かべながら、リズレッドは笑った。
最大のトラウマは、同時に彼女の心に深く彼の姿も刻み込んでいた。弱く、たどたどしい男であるのに六典原罪の一人を討伐せしめた、白髪のあの青年のことを。
彼が勝利を上げて自分に向けて微笑んでくれた顔がはっきりと思い出された。そして、それは恐怖に蝕まれそうになった彼女の心に、何者にも負けぬ強さをもたらしていた。
白剣が振るわれた。
先ほどと同じような鋭さはないが、どこか踊るような軽やかな剣筋だった。
メフィアスは再びそれを掴み取ろうと腕を伸ばし――
「っ」
刃がするりと自分の手のひらを駆け抜けたのを感覚した。
いや、それだけではない。掴み取ろうとした手のひらに違和感があった。久々の感覚だった。いつぶりかも忘れてしまったほどの、ダメージを受けるという感覚。
見やれば、血が滴っていた。一直線に刻まれた跡筋が彼女の手のひらを横断し、そこから真っ赤な血が垂れている。
「もう私は、彼に恥ずべき戦いを晒すわけにはいかない」
珍しいものを見るように自らの手掌を凝視するメフィアスに、リズレッドは決然と告げた。
白皙の剣がわずかに光を帯び、夜の闇を逆に侵食するように輝いている。
「面白いわね、リズレッド・ルナー。思った以上の逸材だわ」
メフィアスは笑った。
血の滴っていた傷跡はすでに塞がれ、驚異的な治癒力で剣のダメージは跡形もなく消え去っている。
「やっぱりあなた素敵よ。それは『彼』への思いが為した力なのかしら? わかるわ。私も女として、この身すべてで尽くしたい御方がいらっしゃるもの」
手を胸に置き、心から共感するという態度を示す悪魔。だがその表情が昏いものを現して、言った。
「――だからこそ、人からそれを奪うのはやめられないの。リズレッド、あなたが『彼』によって今の自分を成立させたように、人は誰でも現在を成立させるきっかけになった柱を精神に持っているのよ。そして私は、それを引き抜くことができる。……ふふ、柱を奪われた人間が、どんな状態になるかご存知かしら?」
「たわごとなど、聞くつもりもない」
「聞く必要なんてないわ。――だって、これからあなたは、身を以てそれを知るのだから」
そう言い放った瞬間、メフィアスが恐るべき速さでリズレッドに接近した。後ろに回り、両肩から愛おしそうに腕を這わすと、吐息のかかる距離で、耳元に囁いた。
「目覚め始めた力も、その白剣も、全部私のために使って頂戴」
夜迦の最中に相手へ囁くときに用いるような、舌の上で言葉を弾く話し方だった。恐怖と蠱惑が混じり合った呪文のような言葉。
しかしリズレッドはそれを振り払った。疾風迅雷の速力をもってして体を回転させ、もう少しで自分の首筋に突き立てられようとしていたメフィアスの歯牙を避けると、そのまま後ろに跳ねて距離を取った。
「――あら、初心な反応ね。ひょっとして初めてだったのかしら?」
舌なめずりしながら残念そうに告げるメフィアス。
リズレッドはそれをきっと睨むと、敵意を全身から発しながら剣を構えた。
心に迷いや怯えはすでになく、あるのは心にしっかりと根ざし、己を支えてくれる彼への思いだった。
メフィアスは歴戦の騎士である彼女の敵意すら美食のひとつなのだと言うように微笑むと、ふいに天を見上げた。
誘導を警戒しながら、あくまでも主眼を目の前に悪魔に置きながら空を確認すると、そこには複数体からなる人影が、この場に現れたときのメフィアスのように翼をはためかせていた。
「あれは……悪魔?」
いつの間にかすぐ後ろに待機していたマナが、静かに告げた。
その疑問を、メフィアスは会釈をしながら答えた。自慢のコレクションを紹介するように。
「私の眷属たちよ。かつてはリズレッドと同じように私と敵対していた子たちだけど、いまはみんな私の物。
うふふ、みんなこの新月の夜で、とても昂ぶっているわ。今夜は素敵なパーティーにしましょう」
続々と地上へと降りてくる彼女の自慢のコレクション達。
リズレッドは瞬時に彼女たちの力量を測った。放たれる気配からおおよその相手のレベルを予測したのだ。
一体一体はそれほどの力は彼女には及ばないが、その数は十に及んだ。
ロックイーターだけでなく、吸血鬼の使徒まで相手にしなければならない状況に、リズレッドが苦虫を噛み潰すような顔をする。
だがそのとき、勇ましい声が後方から響いた。
「リズレッド殿、そいつらはオレたちに任せろ!」
フランキスカだ。
一般人を後ろに退げていた領主が、多くの兵を引き連れて、再び戦場へ舞い戻っていた。その横にはバッハルードの姿もあり、こちらも拳を鳴らしながら歩み寄ってきており、見るからに戦闘の気配を漂わせている。
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